季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

自動運転

2018年12月23日 | その他
車の進化と呼ぶべきなのか。
自動運転の技術が進んでいるのだそうだ。

新技術の裏には必ずと言って良いほど難問が控えている。それも全く予期しないところに。

例えば次のような倫理上の難題が生じているのだそうだ。

衝突を回避するために急な進路変更をする。その作動は人のそれより遥かに正確且つ素早いだろう。

だがもし変更された進路に歩行者がいたとしたら?歩行者は一人で衝突する車には何人もの人が乗っているとしようか。

コンピュータはいずれを選択するのだろう?犠牲者の数だろうか?考えたところで結論が出るとは到底思えない。

この様な深遠なテーマは一般人の手に負えない。ここからは演奏する立場の人として発言しよう。

なんて気取ってみたが。

この手の論者は結構いるのだね。ここでは大学教員としての私が語るとかぺんぺん草としての私が語るとか。

そもそも自動運転中に事故を起こした場合でも責任は運転手にあるらしい。(運転していないのに運転手というのかな?)

それと関係してだろうか、自動運転中も手はハンドルに添えておくことが大切なのだ
と何処かで読んだ。

これは随分間抜けな図である。しかしいくらコンピュータが操縦しているとはいえ、いつ何時想定外の事態が引き起こされないとも限らない以上、たしかに大切な事だろう。

しかし考えてみよう。ハンドルに手を添えただけで不測の事態に際し反応できるものだろうか。

ピアノの鍵盤上に手を乗せて急に弾いたら教師は注意するではないか。弾く前に息をしなさいとか予備動作をしなさいとか。

人間の体はそのようにしか動かない。そうである以上、運転手はある種の身構えをもってハンドルに手を添えた、いや添えただけではだめなのだ、握った状態で座っている必要がある。

そうだ、足だってペダルに着けておかねばいざという時には間に合わない。何のことはない、今まで通りではないか。

さてそこで最初の倫理的難問に戻ろうか。

不測の事態に際しコンピュータは倫理的難問を瞬時に解析し歩行者を守るために衝突を選択したとする。

だが運転手はこちらは倫理とは無関係に本能に従って歩行者の方にハンドルを切る。歩行者に気づかないことだってあるのだから。

こんな時に車はどの様な挙動を取るのだろうね?

僕は今のところ縁のない話さ、とニヤニヤしてしまうのだ。




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