季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

マニアックな人々

2020年02月18日 | その他
僕がかなりアバウトな態度で諸事に係わっていることは本ブログを読む人ならば察しがついているだろう。

本人を知る人にとっては察しがつくどころか、せめてもう少し人並みにできないかと歯がゆい思いだろう。

僕が専門とする音楽の領域内でも、どうしてか自分でも分からないが、綿密に学習して調べ上げる作業が苦手である。

自分でも分からないと言いながら、理由はハッキリしている。なぜか。簡単に言えばつまらないのだ。

あれこれ直感的に捉えたり空想に遊ぶのは大変好きであるから、性分といったほうが良いのかもしれない。

ところが、対象が世の中全体ともなると、あまりに入り組んでいて、ちょっとやそっとの山勘ではとてもとても扱いきれない。

ネット社会の弊害はたしかにあるだろう。きっと僕が想像もできないくらい大きな問題もあるだろう。

しかしひとつ確実にいえることは、あらゆる分野にあらゆる種類のマニアックな人がいる。そして彼らは自分の知識を他人に示したくててぐすね引いているということだ。

それらの厖大な知識をネットという媒体は僕のようなアバウトな人間に提供してくれる。

以前触れた少年犯罪のデータも、これをマニアックと呼ぶことが正しいか疑問だが、ある人が国会図書館に入り浸りの状態で、手に入る限りの地方紙や書籍を元に作成しているものだ。

このサイト無しでは僕も「最近は青少年の残虐な犯罪が増えた」と思い、あらぬ所にその原因を求めたかもしれない。

目を音楽関係に転じても、ルネッサンス音楽だろうと音律関係であろうと、つまり音楽家である(つもりの)僕が良く知らないことを驚くほどの綿密さで調べ上げ、アップしている人が多いことに驚く。

こういったことを根詰めて仕上げるタイプの人は、実生活ではもしかしたら僕が苦手な感じの人なのかもしれない。でもその結果だけを素直に受け取れば良いではないか。

それに、苦手ということを言うならばショパンにしたってワーグナーにしたって、僕が苦手な人種だろう。

マニアックな人を指して言うオタクという言葉には何かしら言い難い侮蔑の念が紛れていないだろうか。

オタクの極めて細部にわたる愛好や知識を、大きな全体に達しないと嗤う同じ人が、自分達は社会の歯車にしか過ぎないと憤慨する。僕には既に理解し難い感覚なのだが。

確かノーベル賞受賞者の利根川進さんが言っていた。研究チームには最終的な局面では今ひとつだが、全体を見渡してゆく能力に長けた人の存在が大変大事なのだと。

これはオタクと全体の関係が逆転してはいるが、世の中全体にわたって成り立つではないか。細部へのこだわりと全体への直感、いずれが欠けても駄目なのだ。






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