パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

世界の大勢

2012-11-26 22:32:33 | Weblog
 ちょうど一週間ほど前、朝日新聞の論壇時評で、高橋源一郎が元外交官の東郷和彦の論文をとりあげ、「驚くべきことを言っている」と書いていた。

 その東郷論文は現在の竹島帰属を巡る日韓関係の緊張について,最大の要因は慰安婦問題にあるとし,この問題について日本国内で言われている様々な議論、例えば、日本軍による「慰安婦狩り」なんかは都市伝説の類いだといった議論、あるいは、公娼、私娼が公認されていた時代だったから、その「罪」を今問うことに意味があるのか、という日本国内の議論は、「世界の大勢」からすれば、全く無意味だと言うのだ。

 東郷氏は、あるアメリカ人が、「建国の頃,アメリカ人は奴隷制を当然のこととして受け入れていたのだから、歴史的には奴隷制度は当然の制度だという議論は,今のアメリカではまったく受け入れられない。過去は常に現在からの審判に向かい合わねばならないのだ」と言ったことをひき、その考え方によれば、狭義の「強制」がなくても、国や社会が結果として弱い立場の女性に性的な奉仕を強いたらなら、それは「人道に対する罪」とみなされるのであり、したがって,現在日本の国内で論じられている議論は、世界の舞台に出ればまったく無意味である、というわけだ。

 この東郷氏の言っていることはずっと前から私が言ってきたことだが、記事内容をみると、正直言って、ちょっとニュアンスが違う。

 私としては,例えば、桜井女史らがアメリカの新聞に「事実はちがう」と大々的な意見広告を出しても、まったく見向きもされなかったのは、ニーチェ風に言えば、存在するのは「事実」ではなくて、「事実の解釈」だからだという風に考えたい。

 葵の御紋のように「事実」を示せばみんなひれ伏す時代ではないのだ。

 高橋源一郎は、この問題を「論壇」の話題としてとりあげているけれど、実際には「論壇」の枠を超えて、広く社会の常識となっていると考えるべきだ。

 もちろん,問題は,日本では常識になっていないことだ。

 我々は「見たまま」に理解しようとしても、何一つ理解できない、複雑な世の中で生きていることに気づくべきなのだ。