パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

矛と盾

2011-03-05 14:04:13 | Weblog
 タカ&トシの司会による「矛と盾」と言う番組を見た。

 食品サンプルのベテランが製作した偽リンゴ一個を、本物のリンゴ4個と混ぜ、リンゴ職人がそれを見分けることができるか否かという趣向だが、レオナルドダビンチ学園とかいう「学校」の先生がコメンテイター的な立場で出演し、見事に予想を外していた。

 先生は、「見破ることが出来る」ことに賭けたらしいのだが、確率的に言えば「見破ることは出来ない」に決まっているでしょ、と私は言いたい。

 何故かというと、「見る」という行為は、対象との直接的な接触なしに対象の情報を得る行為であって、どうしても「雑」というか、抽象的観念が、「判断」に混じってしまうものなのだ。

 「見る」という行為を、対象との直接的な接触なしに対象の情報を得る行為であると定義づけたのは、実は古代ギリシャの哲学者で、爾来、「見る」行為がいかに成立しているかと言う問題は「謎」として存在してきたが、実際には、「リンゴを見る」とは、リンゴをリンゴであると判断することであって、その「判断」は、常に誤り得ることとして存在しているのだ。

 さらに言うと、「見る」という行為を、対象との直接的な接触なしに対象の情報を得る行為であると定義づけることは、「間接知覚論」であって、その場合、
「見る」とは、「対象のコピー」を見ることだと考えるのだ。

 「知覚対象」を「知覚対象のコピー」として見るという考え方は、近代科学および近代芸術の基礎をなす考え方であるけれど、これに対し、「我々は対象を直接に見ていると考えてもいいはずだ」とする考え方が、近年、現れてきた。

 それが「アフォーダンス理論」で、具体的に言うと、自動車運転の際の「車幅感覚」なんかが、それにあたる。

 狭い路地に車を乗り入れる場合、「できる」か「できない」か、正確ではないにせよ、メジャーで測らなくとも、事前に「わかる」。

 「メジャーで測る」のは「間接知覚」だが、多くの場合、「目測」はそうでないのだから、「目測」は、実際には「直接知覚」として機能しているというわけだ。

 それはそうと、ダビンチ学園の先生曰く、「このクイズを是非子供たちに見てほしい」と言っていた。

 ベテランリンゴ職人すらだましてしまうニッポンのコピー技術のすごさを直接見て味わってほしいというのだが、「ちがうんでないかい」と思う。

 子供たちに教えるとしたら、「見る」と言う行為が、他の五感と異なり、対象との直接の接触なしに成立していること(それだけで、「あ、なるほど」とわかる奴はわかると思う)、それ故に、観念的、あるいは抽象的な「判断」が混じること、それ故に、それは「錯誤」を、元来抱えていることを教えるべきでしょう。