パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「文化ナショナリズム」の行方

2011-03-07 21:16:20 | Weblog
 細川厚労相が、3号年金受給者(専業主婦)の「救済」に関し、「知らなかった」と答弁し、窮地に立っている。

 「知らなかった」のは、「2年分を一括して収めれば、すべて収めたとする」という、厚生省の課長通達で、これはさすがにおかしいと、私も思う。

 私が言っているのは、「2年分を収めれば、適当な数式で計算した額を年金としてもらえる」というもので、「2年分を収めれば、すべて収めたとする」というのでは、さすがに、ない。

 さらに加えて前原辞任。

 にもかかわらず、さっぱり吹かない自民党への期待。

 そんなことを考えながら、ふと、目に入ったのが、ポール・ローマーというアメリカの学者の動き。

 ローマーは、ITソフトの事業で成功しているので、金銭問題に脅かされることなく、「好きなこと」をできる立場なのだそうだが、それで、やろうとしていることは、たとえば、中国における香港のような、一国内2制度の地域を「NGO」として「つくる」ことにあるらしい。

 ローマーの専門は「経済」らしいが、さすが、あちらの人はやること、考えることのスケールがでかい。

 いや、表現のしようがないので、「スケールがでかい」と書いたが、もはや、「国家(ナショナリティ)」の有効性が尽きていると見る、その視野は、やっぱり「スケールがでかい」。

 いずれにせよ、日本が「文化ナショナリズム」を脱却すべきところに来ていることは、わかっている人はわかっていると思う。

 日本が「文化ナショナリズム」に拘泥しているのは、実際には、それが危機に瀕しているからなのだ。

矛と盾

2011-03-05 14:04:13 | Weblog
 タカ&トシの司会による「矛と盾」と言う番組を見た。

 食品サンプルのベテランが製作した偽リンゴ一個を、本物のリンゴ4個と混ぜ、リンゴ職人がそれを見分けることができるか否かという趣向だが、レオナルドダビンチ学園とかいう「学校」の先生がコメンテイター的な立場で出演し、見事に予想を外していた。

 先生は、「見破ることが出来る」ことに賭けたらしいのだが、確率的に言えば「見破ることは出来ない」に決まっているでしょ、と私は言いたい。

 何故かというと、「見る」という行為は、対象との直接的な接触なしに対象の情報を得る行為であって、どうしても「雑」というか、抽象的観念が、「判断」に混じってしまうものなのだ。

 「見る」という行為を、対象との直接的な接触なしに対象の情報を得る行為であると定義づけたのは、実は古代ギリシャの哲学者で、爾来、「見る」行為がいかに成立しているかと言う問題は「謎」として存在してきたが、実際には、「リンゴを見る」とは、リンゴをリンゴであると判断することであって、その「判断」は、常に誤り得ることとして存在しているのだ。

 さらに言うと、「見る」という行為を、対象との直接的な接触なしに対象の情報を得る行為であると定義づけることは、「間接知覚論」であって、その場合、
「見る」とは、「対象のコピー」を見ることだと考えるのだ。

 「知覚対象」を「知覚対象のコピー」として見るという考え方は、近代科学および近代芸術の基礎をなす考え方であるけれど、これに対し、「我々は対象を直接に見ていると考えてもいいはずだ」とする考え方が、近年、現れてきた。

 それが「アフォーダンス理論」で、具体的に言うと、自動車運転の際の「車幅感覚」なんかが、それにあたる。

 狭い路地に車を乗り入れる場合、「できる」か「できない」か、正確ではないにせよ、メジャーで測らなくとも、事前に「わかる」。

 「メジャーで測る」のは「間接知覚」だが、多くの場合、「目測」はそうでないのだから、「目測」は、実際には「直接知覚」として機能しているというわけだ。

 それはそうと、ダビンチ学園の先生曰く、「このクイズを是非子供たちに見てほしい」と言っていた。

 ベテランリンゴ職人すらだましてしまうニッポンのコピー技術のすごさを直接見て味わってほしいというのだが、「ちがうんでないかい」と思う。

 子供たちに教えるとしたら、「見る」と言う行為が、他の五感と異なり、対象との直接の接触なしに成立していること(それだけで、「あ、なるほど」とわかる奴はわかると思う)、それ故に、観念的、あるいは抽象的な「判断」が混じること、それ故に、それは「錯誤」を、元来抱えていることを教えるべきでしょう。

芸術として農業を行う

2011-03-04 23:33:04 | Weblog
 昨日、朝日新聞社でアサヒカメラ編集部のM氏と会う。

 M氏の話では、アサヒカメラでは、編集長とM氏、他に一人だけ朝日新聞社の正式な社員で、他の人は、何人ぐらいいるのか知らないが、すべてフリーランスだそうである。

 ということは、厚生年金に入っているのは、アサヒカメラでは3人だけで、他は「自己責任」で、国民年金に入っているか入っていないかのどちらかということになるが、現実はというと、「入っていない」派が多いと思う。

 何故なら、「芸術家畑」を目指す人は、どうしても「貧乏」を目指すことになるからだ。

 去年の暮れの「朝生」で、評論家の某氏が、地方活性化の秘策として、地方に起業家が工場を建て、そこに地元の若者を雇うようにするしかないと発言し、これに、若い女性の「起業家」が、「地方の若者」は、地元に工場が建ったからといって、そこで働くことはしないだろうと、言った。

 私は、「そうだろうなあ」と思った。

 社会の「ありよう」が変わってしまったのだ。

 もし、地方に工場を建てて、工員を募集するとしたら、「発展途上国」の若者を招くしかない。

 日本の若者が「贅沢」になったということかもしれないが、別の言い方をすれば、何のために「働く」のか、動機が変わってきているのだ。

 関曠野という、ベーシックインカムで積極的に発言している人がいるが、彼が言うには、日本に置ける農業や漁業は、今後は、産業としてよりも、地方のフォークロア(文化)の継承としてになわれることになるだろうと言っている。

 要するに、農業も漁業も、一種の「芸術」として行われるので、「金儲け」が目的ではない。

 「金」なんかは、「必要最低限」あればいいので、そこからも「ベーシックインカム」が、必然的に必須となってくる…というのが、関氏の結論だが、なるほどなと思う。

「生活保護」のからくり

2011-03-02 23:51:01 | Weblog
 2、3週間前、「風に吹かれて」を、一時期籍を置いていたことのある某編集プロダクションに挨拶代わりに持参した際、かつての同僚と年金をめぐる話となり、私が、自分は無年金だと言うと、それはおかしい、そんなはずはないと言う。

 国民年金の場合、25年払わないと無資格になるが、厚生年金の場合はちがう、少しでもかけていたことがあれば、その分はもらえるはずだと言うのだ。

 その編集プロダクションは、従業員が3人ほどの小さな会社で、5人以下の事業所は厚生年金を払う資格があったりなかったりしたので、私が働いていた頃、厚生年金を払っていたかどうかはわからないが、他にも辰巳出版だの、つぶれたが、みのり書房で働いていたことがあり、私の記憶では、8年分くらいの掛け金は払っているはずなのだ。

 それで、みのり書房を辞めた時に相談に行った、世田谷の保険事務所に行き、自分に資格があるかどうか聞いたところ、「ない」と言う。

 同僚の話をすると、それは何かの勘違いでしょうと言う。

 厚生年金の場合は、合計20年、つまり240ヶ月分、払わなければならないが、私の場合、108ヶ月払っている。

 私の記憶より払っている期間は多かったが、それでも132ヶ月分不足というわけだ。

 その「不足分」は、国民年金でカバーすることになるが、私が昔、相談に行った時には「入らなくてもいいでしょ」と言われた。

 しかし、そんなことを言ってみてもしょうがない。

 少しでも、払った分を取り返すには「生活保護」を申請するしかない。

 そう思って、明くる日、生活を始めた川口市の相談窓口を訪れたが、これも失敗に終わった。

 何故かと言うと、「生活保護」を受けることの出来る要件というのがあって、それは、「明日から生活できない状況であること」である。

 しかし、実際に支払われるには一月前後かかるので、一月は生活できる金額が財布にないと、役所としては困る。

 この「二つ」が「要件」である。

 要するに無一文状態で相談に来られると、手続き上対応できず、困るので、家賃プラス数万円しか手元に現金がなくなったら、再度来てくれというわけである。

 驚いた。

 「生活保護」の多くが、いわゆる「貧困ビジネス」の格好の餌食になっていると言われるが、それもむべなるかなである。

 こんなのに、うまく対応できるのは、半ば「プロ」である。

 しかし、もっと頭にくるのは、年金の掛け金を払ったにもかかわらず、年金がもらえないということだ。

 何故か?

 そう「決まっている」だけの話である。

 もっとはっきり言えば、私の払った掛け金は、私に戻ってくるのではなく、その当時の老人たちに支払われたのだ。

 だったら、もっとはっきり、年金を「税方式」にすればいい。

 実際、「税方式」として、月額7、8万円の基礎年金を払うというのが民主党のマニフェストだが、これだと掛け金を払っている人に不公平になるという声がある。

 しかし、そんなのは、たとえば私の場合を言えば、108ヶ月分で108万円とすれば、それを5年とか10年間、「上乗せ」すればいいではないか。

 途中で死んじゃったら、「私の損」だが、それはしょうがない。

 そこまで文句は言いません。