パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

蒼井優と山田優と夏帆が姉妹って……

2007-05-12 21:11:05 | Weblog
 最近、ちょっと気になっている事。

 その1。キャノン、エプソンの2大メーカーのジェットプリンターのCMが、いずれも「家族」をテーマにしている。キャノンの場合は、三人姉妹、エプソンの場合は、どう理解していいのか分からない組み合わせだが、とにかく「家族」ではあるらしい。

 さて、これの何処が気になっているのかと言うと、彼らが一向に「家族」らしく見えないところだ。

 「一体、何を言いたいんだ? テレビドラマ、芝居、映画などで、家族の出て来ないものなんかめったにないくらいなものだが、彼らはいずれも本当の家族ではないし、したがって顔なんか全然似ていない。しかし、それが気になって作品鑑賞に障害が起きるなんてことはないじゃないか」と、言われるかも知れないが、いや、まったくその通りで、ドラマで見る“疑似家族”のメンバーが、外見的にちっとも似ていなくても、ドラマ鑑賞に差し障りはないのに、CMとなると、「疑似性」が気になってしまうのは何故か?というのが、私が気になっている事なのだ。

 もちろん、こんなことを気にしているのは私だけなのかも知れないが……とりあえず、こんなふうに考えてみた。

 まず第1に、「疑似性が気になる」ということは、その当のモノが「本物(真実)である」ことを前提にしているわけだが、では、CMの場合はどうかというと、その表現が真実を語っているなんて、誰も思ってはいないだろう。だとしたら、たとえば、姉妹を名乗っている3人が到底姉妹のようには見えなくても全然構わないはずだが、実際には、逆に、それ(疑似性)が気になって仕方ないのだ。なんで、このような転倒した現象が起こるのだろう。

 唐突だが、スガ秀実が、『1968年』で次のように書いている。

 (中核派や革マル派は)内ゲバが革命などではないことを知っているが、だからこそ、それを革命として遂行しなければならないのだ。

 これは、CM中の「家族」が本物の家族などではないことを知っているからこそ、それを本物の家族として見ることを要求されていることと相似していないだろうか。そして、結果としては、「違和感」のみが残ることになる。

 一方、フィクションである劇映画や芝居などには、このようなシニカルな構造はない。「本当のこと」だと思って映画や芝居を見に来る人はいないからだ。

 しかし、「真実」を標榜する自然主義的リアリズム作品の場合はさにあらずで、「本当のこと」と、読者をして信じ込ませる度合いが深ければ深いほど、価値が深まるとされる。逆に言うと、そこに描かれたことが、「本当のこと」と信じられる限りにおいて価値が生じて来るような作品が、自然主義リアリズムにおいて、「良く書けた作品」ということになるのだが、その結果、どのようなことが起きるかというと、『布団』の田山花袋が悩んだように、作者がいくら一生懸命に「本当のこと」を書いても、誰もそれが「本当のこと」であると思わず、逆に、「まったくの絵空事」として書くと、それが「本当のこと」として受け入れられたりする。

 だとしたら、「絵空事」の完成をもって、「フィクション」として成立し得たと考えればいいではないかと考えたくなるが、その場合、「“本当のこと”と信じられる限りにおいて存在価値がある」、という自然主義リアリズムの基本精神は、自然主義者自身によって裏切られることになる。すなわち、彼らはシニズムに陥らざるを得ない。

 スガ秀実は、要するに、「嘘を嘘と解った上で押し通すとしたら、嘘を真実として押し通すしかない」と言っているわけだが、私はそれを、「自然主義者の陥る罠」であると、敷衍して考えようとしてみたのだ。しかし、あやふやなまま、いわば、「書きながら考えた」もので、どうも、付け焼き刃的な部分が残っているかも。宿題としよう(迷惑?)。

 深夜、ヒッチコックの『鳥』を再々度見る。改めて、その面白さに感服。
 ヒッチコック作品特有のユーモアには欠けるが……、と思っていたら、劇中、目玉焼きに煙草の吸い殻をを押し付けて消す場面があり、これは、鳥類に対するヒッチコックの敵意(子供の頃に嫌な思い出があったらしく、ヒッチコックは大の鳥嫌いだったそうだ)をユーモアにくるんで表現したものだそうで……なるほど、そこは見逃してしまったが……いや、でも、これを「ユーモア」と言えるかなあ……。

 中盤、食堂で鳥の襲来を告げられた酔っぱらいが、旧約聖書のエゼキエル書の一節を持ち出して「この世の終わりだ」と言い、一方、老鳥類学者が「自然の復讐だ」とエコロジカルなクールな意見を表明する。ではヒッチコック自身は、どう考えていたかと言うと、「自然の復讐」がテーマだと言っているそうだが、実際は、酔っ払いの暗誦する「エゼキエル書の一節」そのままの終末的展開となっている。
 そもそも、ヒッチコックは信心深い人間にはとても見えないのであって、明々白々なラストの宗教画的雰囲気も、ただそうしないとおさまりがつかなかったというだけの話だろう。つまり、『鳥』は、こけ脅しとも、ちぐはぐと言ってもいい部分の残る「B級作品」だと思うのだが、でも、そこがいいのだ。私にっては。

蒼井優と山田優が姉妹って……

2007-05-12 21:08:33 | Weblog
 最近、ちょっと気になっている事。

 その1。キャノン、エプソンの2大メーカーのジェットプリンターのCMが、いずれも「家族」をテーマにしている。キャノンの場合は、三人姉妹、エプソンの場合は、どう理解していいのか分からない組み合わせだが、とにかく「家族」ではあるらしい。

 さて、これの何処が気になっているのかと言うと、彼らが一向に「家族」らしく見えないところだ。

 「一体、何を言いたいんだ? テレビドラマ、芝居、映画などで、家族の出て来ないものなんかめったにないくらいなものだが、彼らはいずれも本当の家族ではないし、したがって顔なんか全然似ていない。しかし、それが気になって作品鑑賞に障害が起きるなんてことはないじゃないか」と、言われるかも知れないが、いや、まったくその通りで、ドラマで見る“疑似家族”のメンバーが、外見的にちっとも似ていなくても、ドラマ鑑賞に差し障りはないのに、CMとなると、「疑似性」が気になってしまうのは何故か?というのが、私が気になっている事なのだ。

 もちろん、こんなことを気にしているのは私だけなのかも知れないが……とりあえず、こんなふうに考えてみた。

 まず第1に、「疑似性が気になる」ということは、その当のモノが「本物(真実)である」ことを前提にしているわけだが、では、CMの場合はどうかというと、その表現が真実を語っているなんて、誰も思ってはいないだろう。だとしたら、たとえば、姉妹を名乗っている3人が到底姉妹のようには見えなくても全然構わないはずだが、実際には、逆に、それ(疑似性)が気になって仕方ないのだ。なんで、このような転倒した現象が起こるのだろう。

 唐突だが、スガ秀実が、『1968年』で次のように書いている。

 (中核派や革マル派は)内ゲバが革命などではないことを知っているが、だからこそ、それを革命として遂行しなければならないのだ。

 これは、CM中の「家族」が本物の家族などではないことを知っているからこそ、それを本物の家族として見ることを要求されていることと相似していないだろうか。そして、結果としては、「違和感」のみが残ることになる。

 一方、フィクションである劇映画や芝居などには、このようなシニカルな構造はない。「本当のこと」だと思って映画や芝居を見に来る人はいないからだ。

 しかし、「真実」を標榜する自然主義的リアリズム作品の場合はさにあらずで、「本当のこと」と、読者をして信じ込ませる度合いが深ければ深いほど、価値が深まるとされる。逆に言うと、そこに描かれたことが、「本当のこと」と信じられる限りにおいて価値が生じて来るような作品が、自然主義リアリズムにおいて、「良く書けた作品」ということになるのだが、その結果、どのようなことが起きるかというと、『布団』の田山花袋が悩んだように、作者がいくら一生懸命に「本当のこと」を書いても、誰もそれが「本当のこと」であると思わず、逆に、「まったくの絵空事」として書くと、それが「本当のこと」として受け入れられたりする。
 だとしたら、「絵空事」をもって、「フィクション」として成立し得たと考えればいいではないかと考えたくなるが、だとしたら、「“本当のこと”と信じられる限りにおいて存在価値がある」、という自然主義リアリズムの基本精神は、自然主義者自身によって裏切られる他ない。すなわち、彼らはシニズムに陥らざるを得ない。

 スガ秀実は、要するに、「嘘を嘘と解った上で押し通すとしたら、嘘を真実として押し通すしかない」と言っているわけだが、私はそれを、「自然主義者の陥る罠」である、と敷衍して考えようとしてみたわけだ。

 書きながら考えたもので、どうも、付け焼き刃的な部分が残っているかも。

 深夜、ヒッチコックの『鳥』を再々度見て、改めて、その面白さに感服。
 ヒッチコック作品特有のユーモアには欠けるが……、と思っていたら、劇中、目玉焼きに煙草の吸い殻をを押し付けて消す場面があり、これは、鳥類に対するヒッチコックの敵意(子供の頃に嫌な思い出があったらしく、ヒッチコックは大の鳥嫌いだったそうだ)をユーモアにくるんで表現したものだそうで……なるほど、そこは見逃してしまったが……いや、でも、これを「ユーモア」と言えるかなあ……。

 中盤、食堂で鳥の襲来を告げられた酔っぱらいが、旧約聖書のエゼキエル書の一節を持ち出して「この世の終わりだ」と言い、一方、老鳥類学者は「自然の復讐だ」とエコロジカルなクールな意見を表明し、ヒッチコック自身も、「自然の復讐」がテーマだと言っているそうだが、実際は、酔っ払いの暗誦する「エゼキエル書の一節」そのままの終末的展開となっている。
 そもそも、ヒッチコックはとても、そんなに信心深い人間には見えないのであって、明々白々なラストの宗教画的雰囲気も、ただそうしないとおさまりがつかなかったというだけの話だろう。つまり、『鳥』は、こけ脅しとも、ちぐはぐと言ってもいいB級作品だと思うのだが、でも、そこがいいのだな。