パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ジェンダーフリーとジェンダーレス

2007-05-13 22:55:36 | Weblog
 日曜日、ちんたらちんたらとパソコンをいじっているうち、小谷野敦のブログ、「猫を償うに猫をもってせよ」に迷い込んだ。

 読んでいたら、「を」と「お」は同じ、という小ネタがあった。

 「を」を「うぉ」と発音したりする人がいるが、これは、パソコンのローマ字入力だと「を」は「wo」、「お」は「O」であることから、発音もそれに合わせてしまっているだけだなのだ。(パソコンの例は私が考えたものだが……たぶん、そういうことなのだろう)

 その他、音楽家、山田耕筰のとんでもない話(子供のまま大人になったような、傍若無人の振る舞いで有名な人で、結婚した新妻の前で愛人の芸者と交わってみせたという。後、その芸者と再婚したが、文化勲章を受賞した時、拝受式は夫妻で出席する慣例だったが、その再婚した妻が病気だったので、その場で離婚届けに判子を押させ、もう一人の愛人と急遽結婚したんだそうだ……)とか、「もてない醜男」を標榜する小谷野先生ならではの怨みに満ちた記述が満載。(いや、山田耕筰の話は、本当だとしたら、怨みも何も、ひどすぎる話だが)

 しかし、この人(小谷野敦)、「霊柩車の研究」で世に出た井上章一と混同してしまう。あと、「治療」と称して、女性と一緒にお風呂に入ったりして、強制猥褻だか、セクハラだかで捕まった大学の先生ともイメージが重なる。

 いずれも、醜男でありながら、いや、それ故に「女性」に対して並々ならぬ執着を示す、ちょっとおたくっぽい先生たちだが、でも、基本的に彼らは信用できるのではないかと私は思っている。強制猥褻で捕まった先生なんか、本を買おうと思いながら、迷っている間に捕まってしまい、買えなくなってしまった。

 それはさておき、なんで小谷野敦氏のブログに行き着いたのかというと、「ジェンダー・フリー」について調べていたのだ。

 で、驚いたのが、「ジェンダー・フリー」というのは、和製英語なんだそうだ。(私が無知なだけだったのかも)

 『ジェンダーフリーとは、簡単に要約すると「性差(ジェンダー)の押し付けから自由(フリー)になる」というような意味の和製英語で、男だから○○しなきゃいけない、女だから××しなきゃいけない、といった固定的な性差関係を押し付けられないですむようにしましょう、という言葉です。』

 しかるに、反ジェンダー・フリー論者たちの多くは、「ジェンダーレス」、すなわち「性差の無視」と誤解して攻撃しているのだと上記の人は主張していたが、しかし、「性差からの自由」と「性差の無視」の違いは、実のところ、分かりにくいなあと思いながらさらに調べると、『「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源』(山口智美)という本に次のように書かれていることがわかった。

 『私は10年以上、アメリカの大学院でフェミニズムを専門としてきたが、「ジェンダー・フリー」という言葉は聞いたことがなかった。「ジェンダー・フリー」の「フリー」は、日本で一般に理解されているような「~からの自由」という意味より、英語では「~がない」という意味合いが強い。アルコールフリービール、オイルフリーファンデーションなどを例にとるとお分かりいただけるだろう。アメリカ人のフェミニスト学者数名に、「ジェンダー・フリー」について聞いてみたところ、「何それ?ジェンダー・ブラインドって意味なの?」という反応が返ってきた。彼女たちは、「ジェンダーを見ようとしない。ジェンダーが見えていない」という意味にとった。つまり、ジェンダー・フリーを、男女平等に対して否定的な意味合いを持つ用語と解釈したのである。』

 なんだか、頭がこんがらかるが、ウィキペディアのまとめによると、以下のようになる。

 『元々「gender-free」という言葉自体は、アメリカの教育学者バーバラ・ヒューストンが用いたとされている。しかし、ヒューストンはこの言葉を「ジェンダーの存在を意識しない」という意味で使用しており、かつ、「ジェンダーフリー(ジェンダーの存在を意識しない)よりも、ジェンダーに起因する差別や格差に敏感な視点を常に持って教育を進めるべきだ」と述べて、「ジェンダーフリー」に賛成しないという文脈で使ったのである。故に、日本において「ジェンダーからの自由を目指す」思想や運動に「ジェンダーフリー」という語が用いられたのは、本来の意味と異なる誤用であった。日本で「ジェンダーフリー」と呼ばれる運動の思想は、英語圏における「ジェンダー・イクォリティ(Gender Equality)」運動に近い。』

 まあ、これが妥当な認識なのだろうが、いずれにせよ、問題は、「フェミニスト」が社会の現実に対してどのように反応し、結果的にどのように社会の改良に益しているかであって、その点でいうと、日本のフェミニストは、たとえば、学校名簿の性別無視の「混合書き」のような、どうでもいいことばかりを推進するばかりで、落第としか言い様がないと思うのだ。(「混合書き」は「聞いた話」なのでもしかしたら、噂だけかもしれないが)