パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

どいてくれない

2011-08-04 00:33:46 | Weblog
 画面のど真ん中に、スピーカー音量調節のためという名目で3センチ×8センチくらいの矩形のボックスが表示され、どいてくれない。

 自然に消えることもあるが、10秒くらいで、また現れる。

 消せないなら、動かせばいいのだが、マウスでボックス内にポイントをもってくると、途端にポイント自身が消えてしまうので動かしようがない。

 しかし「邪魔」というだけで、他に悪さはしない。

 例えば、後ろに隠された画面を見ようと思ったら、画面を動かせばいい。

 ……のだが、邪魔は邪魔。

 OS(タイガー)をリセットすれば何とかなるのではないかと思ったが、同じHDにセットしてあるOS9で起動しても同じ現象が起こるので、ソフトではなく、ハードに不具合が生じているのかもしれない。

 それはさて、である。

 私が、「一つになれ、ニッポン」というスローガンに楯突いている理由について、前回、説明したのだったが、おかわりいただけただろうか?

 もとい、「おわかりいただけただろうか?」(西武のホームランキング「おかわり君」と、ショートの中島はかっこいいと思う)

 「一つになれ、ニッポン」は、要するに、家族が危機においては一つになって対処するように、日本も、国難に当たって「一つ」になって対処すべきだという意味だろう。

 というか、そうに決まっている。

 私は、このこと自体に反対しているわけではない。

 家族だろうが、国家だろうが、危機に直面した「コミュニティ」が、結束して危機を克服しようとするのは当然だし、それができなければ、その「コミュニティ」は、日本であろうが、アメリカであろうが、中国であろうが、どこであろうが崩壊するであろうことも、当然である。

 私は、「崩壊」を望んでいるわけではない。

 問題は、このスローガンが、発言者が明示された命令形――「一つになれ」ではなく、「一つになろう」とあいまいな話法で示されていることに象徴的に示されていると思うのだが、「一つになる」べき原理原則が「概念」ではなく、当事者同士の「実感」でしかないところにある。

 いや、そうではない。

 当事者同士が「実感」していれば、彼らは、当必然的に、「一つ」になるだろうし、そうなることは、容易に想像がつく。

 というか、「一つになろう」と言ったとき、すでに、「一つ」になっているのだ。

 じゃあ、なんで、いまだに「一つになろう」と言い続けるのか?

 う~ん、なかなかうまく言えないのだが、結局、我々は、責任をとりたくないので、責任を問うこともしないのだ。


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