パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ルントゥが好き

2011-08-05 01:13:18 | Weblog
 ここのところ、どうもうまく文意が伝わらない。

 それで、今回、話題を変えたい。

 朝日新聞に月一回くらいのペースで大江健三郎が「定義集」という、コラムにしては長すぎる、ほぼ一ページの半分を占めるエッセイを書いているが、その2月15日分に、魯迅の『故郷』について書いている。

 私は魯迅が大好きだが、そんなに読んでいるわけではない。

 しかし、『故郷』は読んでいるので、おやおや、どんなことを書いているのだろうと思ったら、大江は、母親から中学の入学祝いにもらった「魯迅選集」をお祝いにもらったのだが、その後、大学に進学した際、帰省すると、母親が、『故郷』は読んだかと聞いたのだそうだ。

 大江の母親は、インテリというわけではないので、「魯迅選集」を息子に送るということ自体、ちょっと不思議なのだが、一人、進学した女友達がいて、彼女が魯迅の岩波文庫を送り、その中で、特に『故郷』が気に入ったらしいのだ。

 それで、母親は、帰省した息子に『故郷』は、読んだか?と尋ねたのである。

 大江は、終わりの一節を暗誦してみせた。

 「思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

 有名な一節だが、これを聞いた母親は、「私は(魯迅の親友の)ルントゥが好きなのだが……」と、がっかりした顔で言ったというのだ。

 私も、ルントゥが好きである。

 ルントゥは、魯迅の「遊び」の先生みたいな魯迅の友達で、その中に、雀を捕る罠の使い方を教える場面がある。

 それは、籠の端っこを棒で支え、米粒を、そこに誘うように撒き、雀がかごの中に入ったらすかさず棒を引くという「罠」だが、ルントゥ曰く、これは雪の日でなければできないよ、と魯迅に教えたのだった。

 雪の日は餌が見つかりにくいので、罠も有効ということなのだろう。

 実は私もこのやり方でなんとか雀を捕ろうと、何度も何度も試みたのだった、

 しかし、全然だめだった。

 多分、私より少し年上の近所のS造ちゃんが、一度捕まえるのに成功したのを見て、うらやましかったのだと思う。

 本当に何回も試みたのだった。

 知人にもらわれていった私の家で飼っていた犬の子供(子犬)が、とても利発で、庭の雀を傷つけぬように、ふわりと噛んで捕まえ、その雀を今飼っています、という話を聞いたとき、かなわなかった自分の望みを果たしてくれたかのごとく、欣喜したくらいに、「雀捕り」は、私の夢だったのだ。

 そうか!

 あれは、雪の日でなければならないのだ!

 と、合点したのだったが、その「魯迅の遊びの先生」であるルントゥは、後年、魯迅の前に現れると、ひどく貧しく、魯迅に物乞いをする始末だった……という短編で、したがって、「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」という最後の言葉も、「歩いた後が道になる」といった高村光太郎流の、楽天的、というか、私に言わせれば能天気な「希望宣言」ではあり得ない。

 「地上には道はない」という、その「道」とは「希望」であり、そんなものは「この地上」には、「そもそも、ない」と、貧困にあえぐルントゥを見遣りながら言っているのだから。(ただし、「歩く人が多ければ」そこは「道」、すなわち「希望」になるのだが……)

 しかるに、一年の浪人の末、学帽をかぶる身分になって、得意そうに「思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない……」と暗誦する息子は、そういう魯迅の深謀遠慮(「希望」を露骨に語ったら「煽動」と思われかねないので、「あるともないとも言えない」と曖昧に語っているのだ)をちっとも理解していない、と母親の目には映ったのだった。

 まあ、そこまで大江の母親が透徹に理解して、息子に失望したかどうか、それはわからないが、「いま母親と自分との心のズレがわかります」とサラリと書いてしまう大江健三郎って、「脇の甘い人」なんだなと思ったのだった。

 いや、その前に、その「ズレ」が何なのか、それを大江がどう認識しているのか、書いてくれなくっちゃである。(全然書いてないのだ)

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