パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ゾウリムシでも生きていたい

2010-07-29 23:21:48 | Weblog
 最近、また親による「子供虐待死」事件が多発しているようだが、対応している児童相談所の職員などの応対を見ていると、以前とはちょっとちがっているように見える。

 率直に、やってることはやってますよ、という感じ。

 実際、虐待件数が増えているのは、それまで隠れていたものが、近所の通報とか、担当者の努力等で見えてきたということかもしれない。

 もちろん、こういうことは、以前から言われていたことだ。

 要するに、児童虐待は古今東西いつも必ずあるものなので(反撃できない弱いものについ欲求不満等のはけ口を見いだしてしまう)、「増えている」のは、ただ以前は隠れていたものが、今は隠せなくなったという側面もあると説く人が必ずいたし、そういう人の意見が紹介されていた。

 ところが、さいきんはそれがなくなった。

 それとも、「虐待死」そのものをゼロにするのが最終的に目指すべきところなのだから、「以前は見えなかっただけ」という意見は、「もはや無効である」とでも言いたいのだろうか?

 そんなわけはない。

 バカのマスコミ人がそんな「言い訳」を思いつくわけがない。

 昨日は、NHKの教育で、自殺問題をやっていたが、それに専門家らしき人物が、「生きているだけでいいんだ」と言ってあげると「そうか」と納得してくれるとか言っていたが、まさか!である。

 「まさか」の第一は、それじゃあ、人間はゾウリムシと同じだ。

 「まさか」の第二は、そんな台詞で自殺志願者が本当に救えるのかということだ。

 人間は他の生物と違って、ただ生きているだけではだめな生物なのであって、自殺志願者に言うべきことがあるとしたら、その事実をしっかり告げるしかない。

 
 そういう「生」を生きることができるのが人間の特権なんだと。

 もちろん、経済的理由による自殺は別だ。

 経済的理由による自殺(ほとんど中年以上だが)の場合、「死ぬこと」は確かに「解決策」になるので、「ためらい傷」のような損傷が遺体に残らないのだそうだ。

 それに対し、若者の自殺は、最後に「助かろう」としてあがくので、傷だらけになる。

 死体を見ただけでわかる。

 というようなことを自殺の権威、大原(健士郎といったかな)の著書で読んだことがあるが、その大原先生も去年だったか、亡くなってしまった。


 それはさておき、ひと月ほど前、100歳で現役医師という、日野原氏が小学校で講演をした。

 どんなことを話していたかというと、テレビニュースなんでほんの10数秒でしかないけれど、「人間、ただ長生きしているのでは意味がない。人間の寿命は何かをなすべきこととして私たちに与えられているので、小学生の諸君にはまだまだ先の話だが、それをしっかり覚えていて、準備してください」みたいなことを言っていた。

 「ほー、」なかなかいいことを言うでないか、ぼけてないな」と思っていたら、ニュースの最後に、小学生が二人、テレビカメラの前で、「命の大切さがよくわかりました」と言わされていた。

 おいおいである。

 日野原氏はそんなこと一言も言っていなかったではないか。

 寝たきり老人になってベッドの中で長生きしてもそんなのは長生きとは言わないよ、とはっきり言ってたじゃないか。

 終電に間に合わないので、じゃあ、これで。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿