昔、日露戦争で捕虜になって日本につれてこられたロシアの水兵が、日本ではどんなに貧しい家に生まれても、学校の成績が優秀なら士官学校に入ることができ、上級将校から、最後は大将にだってなることができることを知って、羨ましがったという話をどこかで読んだことがある。
ロシアに限らず、一般に先進国と呼ばれる西欧各国でも、社会の構造は基本的にロシアと同じで、被支配階級に生まれた人は死ぬまで被支配階級に甘んじなければならないし、支配階級に生まれた人は、まさに生まれながらに人を支配する役目をになうべく教育を受ける。
もちろん例外はある。ナポレオンなんかは、たしか、貧民の生まれではなかったか。それでも皇帝にまでのぼりつめて、樵の息子だったか、水車小屋の粉引きの息子だったか、かの「赤と黒」のジュリアン・ソレルなんか、それに憧れて身を滅ぼしたりしたんじゃなかったっけか。
「赤と黒」は最初50ページくらいで挫折したままなんで、よくわからないのだが、ともかく、支配階級と被支配階級が完全に別れている社会が「横社会」で、社会を形成する紐帯は基本的に「横」に広がる。インドのカースト制度なんかがその極端なケースだ。
一方、日本のように、通常なら被支配階級と目されるような貧しい家に生まれても才覚と努力で支配階級にのし上がることのできる社会が「縦社会」だ。縦社会では社会を形成する紐帯は横ではなく、縦方向に広がる、というかつながっている。
ではどっちの社会が望ましいかというと、日本人だったら、たぶん、縦社会のほうがいいよ、ということになるだろう。
炭鉱夫の家に生まれたら子供も孫も炭鉱夫と決まっているのではやりきれないじゃないかと。
もちろん、今どき「炭鉱夫」なんて職業はあまりなくて、彼ら炭鉱夫はまた別の労働者になっているのだろうが。
ところが、「縦社会」なる言葉を案出した中根千枝自身は、実は縦社会に否定的だ。
論理的にはっきりそう言ったわけではなく、たぶん、公の場では日本はなかなか縦社会から抜けることができないでしょうとか、そんなふうに言っているのだと思うけれど、彼女の本を読んでみたら、縦社会の場合、「立身出世」できない多くの人々は敗北感に苛まれて一生を送ることになるが、たとえばインドのカースト制度のもとで扱いされている人々には、そのような敗北感は感じられないというのだ。
たとえば、あるマハラジャの家の門番を何百年も続けている人間は、その仕事を当然のことと考えているので、ちっとも卑屈なふうは見えないと。
もちろん、中根氏は、「だから横社会のほうが望ましい」と明言しているわけではないのだけれど、その「書き振り」は、ほとんどそう告白しているに近い。(まさか、「カースト制がよい」と言うわけではないだろうが)
ただし、中根氏の本の最初の方をぱらぱらと読んだだけなので、いずれ全部読んで御報告したいと思うけれど、読んだ限りのところでは、そのような印象がある。
つまり、「縦社会」の日本では、「貧富の差」というものが、屈辱感を伴う、耐え難い「格差」として存在してしまうと。
「自己責任」という言葉が一時幅をきかせた。いや、今でもことあるごとに聞かれる言葉で、たとえばフリーター、あるいは派遣社員が職を失っている現状に対し、ある人は、「無能だから正社員になれないんだ」と「自己責任」をあからさまに言い募り、別の人は、「自分がそうなったら、そんなことは言えない」と反論し、返す刀で、雇用者に温情を要求する。
実のところ、この両者とも、失業者を「敗者」と定義している点では変わりない。
縦社会では、どうしてもそうなる。
私は、麻生首相をどうしようもない阿呆だとは…思うけど、でも、ハローワークに視察に行き、仕事を探している若者に、「したい仕事を絞り込め」とアドバイスをして、「仕事を選べる状態じゃない」と、現実を知らないと非難する人が多かったが、そう非難する人々が、「どんな仕事でもいいからお金が欲しい」と思っている失業者かというと、多分そうじゃないだろう。
多分、「敗者は、恥ずべき存在であり、したがって選択する権利なんかはない」と言うのが本音にちがない。
佐藤首相が首相就任直後、ケネディ大統領に会いにいったが、ケネディは忙しくて会えないと断ってきた。
佐藤首相は、だれのアドバイスかわからないが、「私は貴国に敗れた国の首相ですが、敗れた人こそ礼儀を持って接すべきだと○○がおっしゃいました」と言い返し、ケネディはたちまち態度を変えて会ってくれたという。(○○というのはとても有名な人でケネディが「知らない」といったらケネディの恥になるような人だ。)
失業者であれ、フリーターであれ、ひきこもりであれ、職業を選択する自由、権利はどんな状況だってあるのだが、それは、失業者、フリーター、ひきこもりといった存在にも社会的権利があるということと同じだ。
そのことが、縦社会で凝り固まっているとなかなかわからないのだ。
ロシアに限らず、一般に先進国と呼ばれる西欧各国でも、社会の構造は基本的にロシアと同じで、被支配階級に生まれた人は死ぬまで被支配階級に甘んじなければならないし、支配階級に生まれた人は、まさに生まれながらに人を支配する役目をになうべく教育を受ける。
もちろん例外はある。ナポレオンなんかは、たしか、貧民の生まれではなかったか。それでも皇帝にまでのぼりつめて、樵の息子だったか、水車小屋の粉引きの息子だったか、かの「赤と黒」のジュリアン・ソレルなんか、それに憧れて身を滅ぼしたりしたんじゃなかったっけか。
「赤と黒」は最初50ページくらいで挫折したままなんで、よくわからないのだが、ともかく、支配階級と被支配階級が完全に別れている社会が「横社会」で、社会を形成する紐帯は基本的に「横」に広がる。インドのカースト制度なんかがその極端なケースだ。
一方、日本のように、通常なら被支配階級と目されるような貧しい家に生まれても才覚と努力で支配階級にのし上がることのできる社会が「縦社会」だ。縦社会では社会を形成する紐帯は横ではなく、縦方向に広がる、というかつながっている。
ではどっちの社会が望ましいかというと、日本人だったら、たぶん、縦社会のほうがいいよ、ということになるだろう。
炭鉱夫の家に生まれたら子供も孫も炭鉱夫と決まっているのではやりきれないじゃないかと。
もちろん、今どき「炭鉱夫」なんて職業はあまりなくて、彼ら炭鉱夫はまた別の労働者になっているのだろうが。
ところが、「縦社会」なる言葉を案出した中根千枝自身は、実は縦社会に否定的だ。
論理的にはっきりそう言ったわけではなく、たぶん、公の場では日本はなかなか縦社会から抜けることができないでしょうとか、そんなふうに言っているのだと思うけれど、彼女の本を読んでみたら、縦社会の場合、「立身出世」できない多くの人々は敗北感に苛まれて一生を送ることになるが、たとえばインドのカースト制度のもとで扱いされている人々には、そのような敗北感は感じられないというのだ。
たとえば、あるマハラジャの家の門番を何百年も続けている人間は、その仕事を当然のことと考えているので、ちっとも卑屈なふうは見えないと。
もちろん、中根氏は、「だから横社会のほうが望ましい」と明言しているわけではないのだけれど、その「書き振り」は、ほとんどそう告白しているに近い。(まさか、「カースト制がよい」と言うわけではないだろうが)
ただし、中根氏の本の最初の方をぱらぱらと読んだだけなので、いずれ全部読んで御報告したいと思うけれど、読んだ限りのところでは、そのような印象がある。
つまり、「縦社会」の日本では、「貧富の差」というものが、屈辱感を伴う、耐え難い「格差」として存在してしまうと。
「自己責任」という言葉が一時幅をきかせた。いや、今でもことあるごとに聞かれる言葉で、たとえばフリーター、あるいは派遣社員が職を失っている現状に対し、ある人は、「無能だから正社員になれないんだ」と「自己責任」をあからさまに言い募り、別の人は、「自分がそうなったら、そんなことは言えない」と反論し、返す刀で、雇用者に温情を要求する。
実のところ、この両者とも、失業者を「敗者」と定義している点では変わりない。
縦社会では、どうしてもそうなる。
私は、麻生首相をどうしようもない阿呆だとは…思うけど、でも、ハローワークに視察に行き、仕事を探している若者に、「したい仕事を絞り込め」とアドバイスをして、「仕事を選べる状態じゃない」と、現実を知らないと非難する人が多かったが、そう非難する人々が、「どんな仕事でもいいからお金が欲しい」と思っている失業者かというと、多分そうじゃないだろう。
多分、「敗者は、恥ずべき存在であり、したがって選択する権利なんかはない」と言うのが本音にちがない。
佐藤首相が首相就任直後、ケネディ大統領に会いにいったが、ケネディは忙しくて会えないと断ってきた。
佐藤首相は、だれのアドバイスかわからないが、「私は貴国に敗れた国の首相ですが、敗れた人こそ礼儀を持って接すべきだと○○がおっしゃいました」と言い返し、ケネディはたちまち態度を変えて会ってくれたという。(○○というのはとても有名な人でケネディが「知らない」といったらケネディの恥になるような人だ。)
失業者であれ、フリーターであれ、ひきこもりであれ、職業を選択する自由、権利はどんな状況だってあるのだが、それは、失業者、フリーター、ひきこもりといった存在にも社会的権利があるということと同じだ。
そのことが、縦社会で凝り固まっているとなかなかわからないのだ。
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