パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

トンでもない話

2008-07-04 20:56:51 | Weblog
 ベニヤ板をネット通販で申し込んだ。金曜日の5時を過ぎていたので、品物がつくのは来週の火曜日くらいだろうと思っていたら、即メールで返事が来て、「明日お届けします」と言ってきた。「早ッ!」てのは、このことか。

 産經新聞のコラムの質の低下の問題だが、今日のコラム、「断」で言えば,この通り。

 水族館に行くと,水槽に小さなドジョウがいることがあるが、これは展示されているのではなく、「餌用」である。餌としては縁日などで見かける金魚すくい用の金魚のほうが安いのだが、来乗客から「かわいそう」というクレームがくるのでドジョウにしたそうなのだが、金魚もドジョウも同じ魚類、まったくおかしい話である。感情移入しやすい動物にだけ愛情をそそぐ「かわいそイズム」(オレ=伊藤の造語)だ。鯨問題も鯨への「かわいそイズム」だ。なんでも欧米には「牛や豚は神が人間に与えた食物」という理屈があるそうだが、都合よすぎ。云々。

 書き手は劇作家の伊藤えん魔という人物。全然知らない人だが、伊藤さん、あなたは劇作家だそうだから、聞くけれど、舞台に食事のシーンがあったとしたら、食卓に金魚を出すか? 金魚鉢にアジを入れるか? まあ、「金魚を好んで食べる人」がテーマの芝居でない限り、そんなことはないだろう。

 てことは,要するに、金魚は観賞用、ドジョウは食用ということなのだが、これは、「金魚もドジョウも同じ魚類」という問題ではなく、「表現」の問題なのだ。

 私もだいぶ前だが、金魚屋で金魚を飼ったとき、金魚やの親父が、「ついでに」という感じで、すぐ隣を泳いでいた金魚を肉食カエルにぽいと放り投げ,カエルがその金魚を頭から食べるのを見て,ぎょっとしたことを覚えているが,金魚は観賞用という刷り込みがあるから、どうしても違和感が生じるのだ。

 繰り返すが、金魚もドジョウも同じ魚類、という問題ではないのだ。「表現」の問題なのだ。

 犬やネコは愛玩し、牛や豚は殺して食べてしまうのも同じだ。犬やネコは食用には適していない(肉の量が少ないからとか)からという「合理的」な理由も少しはあるかもしれないが、より本質的には、「表現」の問題なのだ。

 たとえば、トンカツやの広告に、豚がコックに扮して、「おいしいよ!」とか言ったりする。これは、豚にしてみればトンでもない(シャレじゃありません)話だが、でも、豚には「表現」という問題意識がないので、何千年もの間、一方的に食用に供せられながら、豚が怒って立ち上がったなんて話は聞かないのだ。される時には,非常な恐怖を感じていることは確かなのに(人間が想像するものとはちがうかもしれないが)、でも、それを「表現」することはないのだ。(なぜかというと、たぶん、言葉を持たないからだろう。)

 聖書に、「神は家畜と動物を作った」、と、食用の動物と野生の動物を分けて書いてあるのも、野生の動物を食べることはウィルスの問題などがあって危ないから、というような合理的な理由もあるのだろうが,基本的には、「家畜」という言葉、すなわち「表現」の問題なのだ。

 牛や豚だって、それ以外の(もちろん人間を含む)すべての動物と同じ動物なのだが、それを人間は,「家畜」と、勝手に別の名前で呼ぶ。このことを、表現技法として、「アレゴリー」(「別のもの」というのが元来の意味)という。豚にコックの扮装をさせるのも同じだ。これは,日本には、まだ若干,牛や豚を食用に供することに抵抗があるので,それを和らげるために「食用家畜としての牛や豚という、別のイメージ」、すなわち、アレゴリーの流布をトンカツ協会(?)あたりが中心になっておこなっているのかもしれない。

 そういうわけで、「断」というコラム名は、話を単純に,力強く語りたいという意欲の現れなんだろうが、でも、「ハンバーガー食いながら、鯨を食べるななんて言えないはずだ」では、「単純=バカ」にすぎない。

 「アレゴリー」なんて、どうせよくわかってもいない文化用語を持ち出すな,と言われるかもしれない。たしかに、生かじりではあるのだが、でも、犬やネコはバカっかわいがりしながら、牛や豚を殺して食べている現実は、それをちゃんと読み解こうとしたら,結構、難しい問題をはらんでいることはたしかなのだ。