パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

アレゴリーについて2

2008-07-05 21:18:38 | Weblog
 またもや、ログインにパスワードを要求された。実は,2週間ほど前にも要求された。毎日書き込んでいるのに、なぜそんな必要があるのだ、1週間とか10日間書き込みがない場合に本人確認をすればいいじゃないか、とメールで文句を言ったが、「さいでございますか」と答えがあっただけ。数ヶ月間、間隔があく時もあれば、今回みたいに2,3週間でまた本人確認を求められる場合もある。抜き打ち検査なんだ。神様じゃあるまいし,傲慢なお役所体質は変わっていない。2chも書き込み規制が頻繁だし、本当にOCNは糞だ。その親会社のNTTは、もっと大糞だ。

 数ヶ月前に、ソフマップで買い物をした時に、2万5000円キックバックについ騙されてはいってしまったのだけれど、公正取引委員会は、このNTTの露骨な利益誘導勧誘商法は規制すべきじゃないだろうか、って思うくらい,目に余る。

 NTTって、一応民間会社のはずなのに、「金の心配はしない」、みたいな姿勢がほの見える。よくわからないが、政治的な何かがありそうだ。

 それはさておき、アレゴリーなんだが、これは難しい。ベンヤミンが、「ゲーテもまちがっていた、イェーツも理解できなかった」と言っているくらいに難しい。

 昨日書いたように、豚にコックの扮装をさせるような擬人表現がアレゴリーの典型であって、こんなことに「どんな意味がある?」って思うのが、ゲーテだろうが、イェーツだろうが、普通なのだが、ベンヤミンに言わせると,これが案外大事であり、実際,近年、アレゴリーがかなり復権してきているのだ。

 たとえば、豚が、トンちゃんの愛称で親しまれる(?)「食用の家畜」であることをナンセンスな擬人化であるとして否定したらどうなるか。

 実のところ,人間の肉も豚の肉も同じ動物性蛋白としては同じものだ。だとしたら豚の代わりに人間の肉を食べたっていいわけだが、人肉食は大体ほとんどの民族で(中国はちょっと怪しいが)タブーになっているから、人を殺して食べたりはしない。では、人肉食をタブーにさえすれば,自動的に牛や豚を殺して食べることが許されるかというと、そんなことはない。

 例の『蠅の王』で、無人島に流れ着いた少年たちが、土着の豚を殺して食用にする場面があるが,あまりのショックに,彼らはみな精神がおかしくなる。端的に言って,『蠅の王』という小説はそういう小説なのだが、そのように、業が特別な職業とみなされるのは、日本だけじゃない。肉食を常食とするヨーロッパでも、職人は「特別な人間」なのだ。

 つまり、人間が、生物学的にはほとんど同類の存在である哺乳類の肉を食べるには、ある「壁」があるのだ。殺した瞬間に,豚や牛が,実は根源的に自分たちと異なる存在ではないことがわかる。それは、『蠅の王』でしつこく言及されていた通りだ。つまり、職人が「特別な人間」とみなされているのは、自分が生き延びるために越えねばならない「壁」が存在することを暗示しているのだが、じゃあ,職人にを任せておけば,あとは、見て見ぬ振りで、なんの気兼ねもなしに「肉」を食べることができるかというと、そうではない。牛や豚は食用である、彼らを食べても罪にはならないという観念を、間断なく刷り込むことが不可欠である。そのための強力な方法がアレゴリー(擬人化)なのだ。

 言い換えるなら、たとえば、ライオンやオオカミのような肉食動物は、共食いを避けながら、他の動物の肉を食べる。これは,本能だ。しかし、人間は、岸田秀じゃないが、本能が壊れている。その壊れた本能の代わりとなるのがアレゴリーだとも言えるだろう。

 昔,中平卓馬という写真家がいた。外語大のスペイン語科出身だが、本質的に理科的資質の持ち主だったのか(損な感じが昔からしていた)、擬人的表現というものを極端に嫌い、焼き肉をつつきながらも、「なんで、この肉が人の肉であってはいけないのだ?」と悩み(いや、これは嘘)、あげくに、世界のナベアツじゃないが、「アホ」になってしまった。

 でも、「アホ」になると、いいこともある。中平卓馬の最近の写真は、私たちに、「あんたもアホになれよ。楽だぞう」と言っているがごときである。(私はお断りしますけどね)