パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

格差社会とお釈迦様

2008-03-31 21:02:37 | Weblog
 草森さんは、独り者だったので(ただし、子供ひとりあり……だそう)、死後十日くらいたって、連絡のないことに不審をもった編集者によって発見されたのだそうだ。

 いわゆる「孤独死」というやつで、政府・マスコミは、この「孤独死」の防止に躍起になっているが、なんで「防止」しなければならないのか。これからは、このような「死」が普通になるだろう。どうしても、「孤独死」がいやなら、創価学会に入ればいいだろう。あそこは、友達葬というのをやってくれるそうだし。

 そもそも創価学会が数を伸ばしたのも、僧侶不要の「友達葬」が受け入れられたのだ。枕元でドンつくドンつく太鼓を叩きながら、南無妙法蓮華経を唱えられちゃうが、でもこれはこれで、賑やかでいいかもしれない。

 草森さんの住まいは、隅田川の川向こうの団地。なんか、いかにも草森さんにぴったりの場所だなあと思っていたが、出身は北海道(釧路だったかな)で、ちょっとびっくりした。高校生時代は野球選手でショートを守っていた。背も高く、地元では結構鳴らしたらしいが、最近では、隅田川の橋をわたるのに、何回も休憩をとる必要があったくらいに体力が衰えていたとか。

 2年程前にお会いした時は、元気そうだと思ったのだが、旧知の間柄だったM氏は、「歩くスピードが全然遅くなっていたよ」と言っていた。

 ちょうど私よりひと回り年上のようなのだが、私もこれからひと回りで……なんてことにならないように、ともかく「歩け、歩け」の毎日。うちの父親を見ても、明らかに、足から衰えていた。それで、新宿に事務所を変えてからは、最低でも1万2000歩は歩いている。そういう地理的条件なのだ。よぉっしゃ~。(から元気)

 明日から、いろいろ制度が変わるらしいが、すべて「おせっかい」路線。たとえば、メタボ検診制度なんてのができて、40歳以上の日本人は基本的に全員、メタボ検診を受けなければならなくなった。そこで、その効果を上げるため、「受診率」が規定にみたない施設は、ペナルティを課せられるそうだ。てことは、もうじき、降る矢のごとく、「検診を受けろ」というお知らせが届くのだろうなあ。ああ、うっとおしい。

 生活習慣病が急増し、健康保険制度を圧迫しているんだったら、生活習慣病は保険対象外にすればいいじゃないか。健康保険の支払いの大半は、「生活習慣病」がらみらしいから、それを「対象外」にすれば、保険料は劇的に下がる。その分、イザと言う時に備えて貯金するか、あるいは、民間の医療保険に入ればよい。

 となると、アメリカ式医療制度に近くなるが、アメリカでは盲腸を手術しただけで破産するくらい、金がかかるという。しかしそれは、おそらくビル・ゲイツみたいな金持ち相手のいたれりつくせりの病院の話ではないか。
 もちろん、実際のところはどうなっているのか、よく知らないのだが、普通に考えれば、金持ち向けのあらゆる面で充実した病院と、赤ひげ先生みたいなボランティア中心の貧乏人向け医療施設と、その中間の、「中流」が行くそこそこ立派な病院に別れている、つまり、「格差社会」に応じた仕組みになっているのだろう。

 というわけで、結局、格差社会は是か非か、という問題に立ち戻ることになるのだが、この問題を考える前に、一つ、目からウロコのお話を。

 ホッブスという、イギリスの17世紀頃の哲学者が言っているのだが、人間は何故争うのか、というと、「人間が平等に生まれついているからだ」というのだ。「え? 逆じゃないの?」と思われるかもしれないが、ホッブス曰く、人間は、一方的に相手を圧倒するほどの知力体力があるわけではない。たとえば、ダビデが巨人ゴリアテを石礫で倒したように、どんなに体力で圧倒されていても、工夫を凝らせば、やっつけることができる。
 そういう意味で、「人間は平等に生まれついている」のだが、しかし、現実には、運、その他で、境遇に差がでる。そこで、差をつけられた方は、それをばん回するために「強者」あるいは「成功者」に挑まないわけにいかない。つまり、人間は、「平等に生まれついている」ために、争いが起こるのだ。

 これが、「事実」であることは、たとえば、インドのカースト制度が逆の形で証明している。つまり、インドでは、人間は、それぞれのカーストに生まれるのであって、絶対に「平等」に生まれついているわけではないが、これは、まさに、「争い」を避けるための制度なのだ。

 しかし、生物学的に言えば、人間はみな「同じ」であることは確かだ。つまり、インドのカースト制度は、人間の「生物学的事実」を捨象(無視)して成り立っているわけだ。なんのために? それは、「争い」を避けるためだ。お釈迦様も、人間の生物学的「事実」を直視したら「争い」が必然であることを知り、「悟り」という認識論的枠組み、すなわち「知恵」に逃避せざるを得なかったのだ。

 といったことを前提に、「格差社会」を考えると、さてどうなるか……?

 ええ……何を書こうと思っていたのか……そうだ、ガソリンのことだった。

 どこかのニュースショーで、事態の解説にあたっていた若いアナウンサーが、政府も新聞も、しきりに「混乱する」と言っているが、それは政府、新聞の側から見てのことで、こちらとしては別に混乱なんてしていない、といったようなことを喋っていて、私が昨日書いたことと完全に同じではないけれど、ニュアンスは近いように思った。

 では、昨日、どんなことを書いたかと言うと、要するに、官僚不在の元で展開するブレイクスルーの感覚を、「自由の感覚」として再編成し、これをもって対官僚の闘う剣とすべきというのだ。簡単に言うと、「再値上げなんてしたら、黙っちゃおかねえぜ」ってことだ。(吉本隆明みたいな口調になってしまった)