昨日は、酔っ払い運転の車に追突されて死んだ3人の子供の一周忌だったそうで、ニュースでも大々的に取り上げて、例によって「忘れてはいけない」の大合唱。
勿論、幼くして亡くなった3人は可哀想だし、さらに両親は気の毒だと思うし、「酔っ払い運転」が撲滅されるべきであることにも同意するが……「忘れるな」の強制はどうか。
たしかフロイトは、人間の「意識」をなんとかボードという、消しては書き込むことのできる「おもちゃ」にたとえていた。つまり、人間の顕在的な「意識」は、せいぜい一枚の黒板程度の容量しかなく、消しては書き込み、消しては書き込み、の連続から成り立っている。そして、消された内容が「無意識」として蓄えられるのであり、人間という存在は、この膨大な「無意識」があればこそなのだと言っているわけだが、「忘れるな」キャンペーンは、それを不可能にしてしまう。
つまり、人間の「心」のキャパシティーは無限ではないのであって、心の経験したことは、「忘れる」ことによって、実は、有効になる。「芸術」がいい例だ。すべて、作者の「意識」によって統括されている作品なんて、退屈きわまりない。
そもそも、3人の幼児を一度に失った親がもっとも可哀想なのは、「忘れることが出来ない」からではないか。ところが、マスコミ、そしてそれに煽られた、善良かもしれないが、物事を深く考えることの出来ない人々は、口を揃えて、「忘れるな」と言う。なんて残酷なことを、と思う。
勿論、幼くして亡くなった3人は可哀想だし、さらに両親は気の毒だと思うし、「酔っ払い運転」が撲滅されるべきであることにも同意するが……「忘れるな」の強制はどうか。
たしかフロイトは、人間の「意識」をなんとかボードという、消しては書き込むことのできる「おもちゃ」にたとえていた。つまり、人間の顕在的な「意識」は、せいぜい一枚の黒板程度の容量しかなく、消しては書き込み、消しては書き込み、の連続から成り立っている。そして、消された内容が「無意識」として蓄えられるのであり、人間という存在は、この膨大な「無意識」があればこそなのだと言っているわけだが、「忘れるな」キャンペーンは、それを不可能にしてしまう。
つまり、人間の「心」のキャパシティーは無限ではないのであって、心の経験したことは、「忘れる」ことによって、実は、有効になる。「芸術」がいい例だ。すべて、作者の「意識」によって統括されている作品なんて、退屈きわまりない。
そもそも、3人の幼児を一度に失った親がもっとも可哀想なのは、「忘れることが出来ない」からではないか。ところが、マスコミ、そしてそれに煽られた、善良かもしれないが、物事を深く考えることの出来ない人々は、口を揃えて、「忘れるな」と言う。なんて残酷なことを、と思う。