パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

暑いぜ

2007-08-15 21:42:14 | Weblog
 八月十五日、小泉純一郎、紋付羽織はかまで靖国参拝。

 あー、これは、小泉新党旗揚げに向け、自分の「パフォーマンス」の効果がどこまであるかをはかるための、「様子見」だな。

 と、咄嗟に思ったのだが、そんな見方は今のところ、いっさいなし。

 ところで、一週間ほど前、内閣府が、「負の所得税制度」の導入を、「考えてもいいのではないか」と提言したそうだ。
 
 「負の所得税制度」とは何かと言うと、要するに、税の基礎控除額に達しない低所得者は、その差額の一定割合いを現金で受け取るというもの。つまり、一種の所得補填制度である。
 たとえば、基礎控除額が年間250万円として、200万円の年間所得の人は、250万円との差額50万円の一定割合い(定率)をかけた金額をもらえる。たとえば、定率50%なら、50万円×0.5=25万円を「負の所得税」としてもらえる。もし収入がゼロなら、250万円×0.5=125万円を、もちろん現金でもらえる。

 働かずにお金がもらえるとしたら、勤労意欲がなくなってしまうのではないかというと、実はそうではない。たとえば、収入ゼロの人が、働いて年間50万円得たとしたら、その人は、50万円と250万円の差額、200万円の半分、100万円を「負の所得税」として受け取るから、総収入は150万円となる。その人が、さらに頑張って、年間100万円を稼ぐようになったとしたら、150万円の半分、つまり75万円が「負の所得税」として与えられ、それに100万円を足して、175万円が総収入となる。200万円だったら、負の所得税を入れた総所得額は225万円と、着実に増えて行くことになる。

 この「負の所得税」は、一見虫のいい話だなという印象があるが、このように、「負の所得制度」とは、むしろ、現行の社会保障制度こそ、勤労意欲を殺いているのだという考えから生まれたのだ。
 最初に提案したのはアメリカのレーガン政権の経済顧問だった、有名な経済学者のミルトン・フリードマンで、フリードマンによると、今の社会保障制度というのは、結局のところ、官僚のために仕事を作ってあげているようなものであるから、直接に所得補填をしたほうがいいというのだ。
 小沢が言っている、農家への所得保障も、多分、おなじ考えだと思う。少なくとも、米の自由化に伴う数十だか、数百兆円だかに達する巨額なウルガイラウンド対策費用を農道とか、水害対策とかの「公共建設事業」に使ってしまって、今、地方の低下が叫ばれているのを考えれば、ここは、小沢のほうが正しいと言わざるを得ないのだ。

 閑話休題。

 フリードマンは、いわゆるマネタリスト(貨幣主義者)として知られているが、マネタリズムとは何かというと、実は難しくてよくわからないのだが、要するに、貨幣の価値は《中立的》なもので、真の価値は「人間」あるいは、「労働」にあるというオーソドックスな考え方を排し、貨幣そのものに価値があるのだと考える立場らしい。

 この「哲学」がどのようにして「負の所得税制度」に結びつくのかということも、今いち、よくわからないのだが、たとえば、日本の健康保険制度だと、健康な人が病気になった人を助けるという形になっている。「今、健康でも、いつか病気になる時が来ますよ」というのが私も言われた制度側(役人)の言い分で(あと「保険料を払っていない人に限って、重病になるんですよ」、とか。どんな理屈でそうなるのか? マーフィーの法則にだってないぞ)、なるほどそれもそうかなと思ってしまうのだが、しかし、昼間から、脂がギトギトに浮いた、塩分たっぷりの豚骨ラーメンを食したりして、やがて、糖尿病、そして、人工透析に費やされる金が年間5兆とも6兆、保険料金として徴集された金額の大半をそれで占めてしまうという現実を知ると、やはり「助け合い」の説明は、おかしいと思ってしまう。(「生活習慣病」は読んで字のごとく、「自己責任」で防げるはずなのだし)

 要するに、もし、医療を社会保障の一環として考えるなら、「健康な人が病気の人を助ける」のではなく、「お金持ちが貧乏人を助ける」が本筋であり、これが、社会保障も「貨幣」問題として考えるフリードマンの立場なのだろう。

 それはともかく、この「負の所得制度」というものは、官僚の役割を、手取り足取りの「良民教育」をすべてカットし、「徴税」の一点に絞り込もうというものでもあって、それを、官僚である「内閣府」が提唱したことが、注目すべきことなのだと私は思うのだが、これも、マスコミはほとんど報道しなかった。クソ。

 それにしても、暑い。暑過ぎる。