無業者となってから大きく変わったことがあります。
以前は、本屋で読みたい本、読まねばならない本、目に止まった本等を見境なく購入していました。その結果積読山が積読山脈、そして積読連峰と化しました。(現在も未整理のままです。)
現在は、その週に読める冊数を購入するように心がけています。が、予想外に落とし込むのに時間を要する一冊があったり、私事が輻輳したりしますと、積読連峰行きとなる本が出てきます。
今回メモする内容は、精読ではなく空いた時間に目を通した類で、誤謬等があるかもしれませんが、前もって言い訳を記しておきます。
「一九四六年憲法 その拘束」(江藤淳 文春学芸)
似非思想家
当ブログにおいて「ポツダム宣言の呪縛?」(8/12up)で、「異論のススメ」(佐伯啓思 朝日朝刊8/7「ポツダム宣言の呪縛」)についてメモしました。ただ佐伯啓思の著作は読んだことがないので一冊手にしたい旨を書きました。
佐伯啓思の「従属国家論」 (PHP新書)に目を通した雑感を、「「保守」の仮面」(8/30up)でメモしました。
同書において、米国の正義「自由、平等、民主主義」の再検討が必要であり、日本の精神(価値観)として「特攻隊」について述べ「諦念と覚悟」を引き継がねばならない(故に「大日本帝国(大本営)」の狂気を「不問」』とせざるを得ない) 、 米国に「憤り・怨恨・憎悪・非難等の感情」(いわゆるルサンチマン)を持っており、それを吐露しているだけ「保守」の仮面を被った「ウヨク」の輩と、評しました。
その後も、何故「特攻隊」であり「諦念と覚悟」なのかが引っ掛かっていました。また、「異論のススメ」(佐伯啓思 朝日朝刊10/2「そもそも平和とは何か」)が、あまりにも陳腐で高校生か大学生が習作したよう質だったこともあります。
「従属国家論」において江藤淳の「一九四六年憲法 その拘束」からの引用が多であり、江藤淳の著作からの孫受けの感がありました。
「一九四六年憲法 その拘束」は、実地調査をもとに論理的な展開で読み応えのある力作で、さすが江藤淳といえます。(論旨の賛否は別にして)
「南洲残影」(江藤淳 文春文庫)
佐伯啓思の日本の精神(価値観)とする「諦念と覚悟」について、精緻な論理的な考え方をするが「ふわふわした情緒丸出し」の著作などあり得ないと考えていましたが、「自死」(1999年7月)したことから晩年の著作に「何かある」と考え、西郷隆盛について書かれた『南洲残影』(1998年3月刊 文藝春秋*)に目を通しました。
西郷隆盛について精緻な論理的展開をするのではなく、感傷とも言える情緒感に溢れた論考(?)で、「一九四六年憲法 その拘束」とは異質な著作です。
「南洲残影」36P~
何故なら人間は、最初から「無謀」とわかっていても、やはりやらなければならぬことがあるからである。日露開戦のときがそうであり、日米開戦のときも同じだった。勝った戦が義戦で、敗北に終わった戦は不義の戦だと分類してみても……・
このフレーズを目にした時に、佐伯啓思の「従属国家論」に対する引っ掛かっていた事柄が氷解しました。
「従属国家論」247P~
勝ち負けは力の問題であり、時の運であり、状況の問題である。敗北はわかっていても戦わなければならぬときはあり、戦うときべきときに戦うこと、それ自体に義がある。その義を捨てることは卑怯者のすることであり・・・・
佐伯啓思の「保守思想」とは、江藤淳におんぶに抱っこした類なのです。
* 「南洲残影」は、「文学界」で1994年10月号から1998年1月号に掲載