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Creator's Blog,record of the Designer's thinking

毎月、おおよそドローイング&小説(上旬)、フィールド映像(中旬)、エッセイ(下旬)の3部構成で描き、撮り、書いてます。

京都暮らし339. 梅雨入りの頃

2010年06月15日 | Kyoto city
 京都は、昨日から梅雨入りした。予報によれば待望の雨が降るというので、植物園へ出かけた。撮影していたら次第に雨が降ってくるではないか。デジタルカメラ向きの良い光だと思っていたら、次第に雨脚が強くなり、しまいにはどしゃ降りだった。それでは降りすぎであり、やむなく観覧温室へ逃げ込んだ。
 温室には、東南アジアやアフリカ辺りの植物等が造形的に面白しろく、気の向くままに撮影していた。こうなると、重さを我慢して広角レンズを付けたS5も持ってくればよかったと思う。
 最近カールツァイスの単焦点レンズで撮影していると眼が慣れてきており、普通のズームレンズで撮影した画像を見ると、後者は、輪郭が弱々しく背景がぼけない画像であることに気づく。こういう普通のズームレンズでもきっちり使いこなすのがプロ技なのかもしれないが、私は写真の専門家ではないので、ツァイスにこだわりますね(笑)。
 結局ずぶ濡れになり、帰りに進々堂のトルティーヌで遅いお昼にした。ここでお昼を食べるために、植物園へ出かけたようなものである。雨模様であるため、お店にはめずらしく空席があった。もう立派な梅雨入りの頃である。

京都市・京都府立 うわっ!、マクロレンズはピントがシビアだ!!。右下の水滴にピントを合わせたのだが、綺麗にボケてしまった。
 曇り空の場合、直達日射量は低いが、全天空照度は晴天日より高い。光が雲に反射して環境全体に回るからである。デジタル機材で撮影するときは、雲に乱反射した光が程よく被写体に差し込み、大変良い撮影条件だといえるだろう。
 そう書けば、多くの人々が天気が良いとデジタル機材を持って外に出てゆくではないか。あれはどうなるんだいという質問が出てくるだろう。
 私の答えは、ラチチュードの狭いデジタル機材では、天気の良い時は、輝度差の大きい被写体で必ず白飛び(色情報がないこと)を起こし最も不適切な日であると断言しておく。何回も書くように天気の良い時に撮影をするものではない、というのが私の結論である。従って世の中の多くが間違ったことを、大方は間違いに気づくことなく、行っていることになる。
 さらに言えばCMOSという撮影素子は、電気の消耗は少ないが、本来色が悪いので使えない。プログラムで大いに後補正しているわけだ。このように書くとニコンもキャノンも、それら以外も、みんなCMOSだ。従って全部使えないという結論になる。
 それでも、あなたは、天気の良いときに、CMOSの撮影素子を搭載したデジタル機材を持って、撮影に行きますか(笑)。
 ワールドカップ、カメルーン・日本のハーフタイムの合間にアップさせた。

京都市・京都府立植物園,2010年6月14日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/125,絞りf4.露出補正-1/3,ISO1600,カラーモードF2.
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京都暮らし338. 遷都1300年

2010年06月13日 | Kyoto city
 時々このブログは、当該日の前日に書いていることが多い。夜中の12時以降にアップさせれば、当日のブログになる。ややこしいのは、日付の記述だ。今日の話を昨日と読み返えなければならないからだ。
 例えば土曜日に書いていても、「昨日の京都は暑かった、今日から梅雨入りだ」と書くわけである。だが、日曜日の天気はホントに梅雨入りの雨が降るのだろうかというのは、ブログを書いている土曜夜の時点では、わからない。ここに文章と現実の出来事との時差があって、面白いなと思っている。早い話、そういう時差のある話題を書かないにこしたことはない。
 もう少し極論を言うと、iWebの日付はいかようにでも設定できる。試みに1000年位年号をバックさせてみた。4桁表示の原則が変わらないから、西暦0000年まで戻れるということになる。0000年の先は多分9999年だろう。年号を戻すのが面倒なので、そこでやめておいた。年号というよりはカウンターである。
 それを思えば、ブログで律儀に文章と日付とを合わせなくてもよいだろうという気分になる。といって0710年と表示されたのでは、読む方は迷惑だろう。
 因みに西暦710年6月13日は、iWebによれば金曜日と表示された。それは飛鳥時代、中大兄皇子が蘇我入鹿を打ち滅ぼし、それまでの豪族政治から天皇政治がはじめられ、後に天武天皇によって大宝律令という法律が701年に発布されて国家が安定に向かう頃であった。そして西暦710年に今の奈良市に都が移され平城京という新しい都市が誕生した。だから今年の奈良市は遷都1300年祭を行っているのである。

京都市・京都府立植物園,2010年5月24日撮影.
Fuji FinepixS5pro,AF MicroNikkor60mm/f2.8.
シャッター:1/225,絞りf4.,ISO100,カラーモードF2.
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京都暮らし337. 日出ずる国

2010年06月12日 | Kyoto city
 20世紀末に中国・雲南省の田舎の集落での経験を、過去ログでも書いた。
 雲南省のある集落の田舎の小学校でお昼になると、それまで静かであった学校に一斉に建物を揺るがすような歓声があがり、全児童が走って外に飛び出してきた。家で食事をするのである。彼らの笑顔ある元気な賢い顔は、一杯勉強したという充実感に満ちあふれていることが、部外者の私にもわかった。
 その時私は、中国がいずれは日本の経済を追い越し、世界のリーダーになって行くだろうと実感した。
 その小学生達も今は、大学を卒業し社会に出てきた頃であろう。当時の私の予感は的中し、今中国のGNP、GDPは、既に日本を追い越している。
 そして次に潤沢な中国資本は、日本の優良企業を買い占めつつある。敵対的なM&Aをしかけるまでもなく、自分が儲かればという意識の強い日本人投資家の株などは、容易に中国資本に組み込まれてゆくであろう。
 企業を成長させて行く努力は大変なのだが、それに比べれば企業自体を購入できれば、その方がはるかに経済的なのである。すぐそこに資本と経営は中国、といった日本企業の構図が伺える。それは日出ずる国の実力である。
 このままゆくと、あまり働かない日本人は、次第に行動的な中国人にとって変わるだろう。そうした人的資源では、中国人は日本人の10倍なのである。日本の街では富裕な中国人と貧しい日本人とが混在する格差社会となることも、既に講義でも話したし、このブログにも書いた。
 こうした中国の経済力に日本はどのように立ち向かうのだろうか。技術力という看板はあるが、技術というものはコピーできるのである。中国人はコピーの天才である。従って我が国が掲げる技術立国という施策は、既に成立していない。
 最近、日本のトップが1年で交代し続ける政治的混乱もそうだが、世界の経済的リーダーの一翼を担える長期ビジョンも施策もなく、またそれにむけた行動もみられないというのが現在の日本の姿である。当然日本の将来はない。
 さて日本は、これからどんな施策を展開するのだろうか・・・。もう手遅れという感じもするが。

京都市・京都府立植物園,2010年5月24日撮影.
Fuji FinepixS5pro,AF MicroNikkor60mm/f2.8.
シャッター:1/125,絞りf8.,ISO160,カラーモードF2.
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京都暮らし336. 陽沈む国

2010年06月11日 | Kyoto city
 ここ二ヶ月ほど毎日このブログを更新している。巷には、何年も毎日更新しているブログもあるので、大きなことは言えない。
 それにこちらは、画像のストックは十分あるが、日々話題のある暮らしをしているわけではない。まして大学とか研究生活などは、地道こそが身上と言わんばかりの世界なのだから、そうそう刺激がある話題はない。
 にも関わらず文章を書いているというのは、 話題のない時にどのように文書をつくるかというレッスンだと解釈している。
 こういうときに、過去の画像をひっくり返して話題をつくる方法もある。よく考えると大方の写真は、私の身の回りで撮影したもの、ある時小さな旅に出たときもの、といったように行動範囲が収束していることに気がつく。アップさせるには、私自身が魅力を感じていない。
 或いは新たにコンピュータ・グラフィックスをつくるという方法もある。このブログでは、過去にもアップさせたが、制作過程を記述してゆけば、一月ぐらいは話題が続く。だが、最近架空の環境を制作しても、それだけの話であり、それ以上の面白い話題が出てこない。
 そういえば、最近、大学時代の研究者仲間達とCADの教科書をつくる仕事に少し関わっている。多分暑い夏頃に原稿を書くのだろう。これは少しだけ刺激的のある話である。
 といった具合に、最近話題と意欲が欠落しそうなことが多い。そう思ったら日本自体も、人口減少が顕在化しつつあるなかで、元気がない。将来ビジョンや、国家的事業といった言葉が全く見られない。最早そんなことを考える市場もなく、施策自体が必要ないということだろうか。陽沈む国という実感が次第に迫ってくるようだ。

京都市・京都府立植物園,2010年5月24日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/350,絞りf4.露出補正-1/3,ISO100,カラーモードF2.
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京都暮らし335. 今日は閑話だな!

2010年06月09日 | Kyoto city
 もう梅雨入りしてもよいと思われる時期だと思うが、 雨の風景に私の関心が移ると、期待の雨はなかなか降りそうで降らない。そのかわり蝶や蜜蜂などが花弁を求めて飛び回っている光景ぐらいは見られる。
 昨日までは雨予報が出ていたiPhonの表示も、今日になったら連続する晴天日の予報に変わってしまった。講義で出かけた名古屋も30度と夏のような暑さだった。
 思えば大学の教員も自分の研究などの仕事を除くと、学生相手の仕事になるが、これが大いに待ちの姿勢を要求されるのである。つまり学生達が論文の草案やデザインのエスキースを持って来なければ、こちらは仕事にならない。その学生達の仕事と言ったら、もう生あくびをかいても足りないぐらいに鈍いのである。そんなわけで、新学期が始まった今頃の季節は、学生相手の仕事が大変暇になり、どこか気合いが抜けたようだ。こうして一つ気合いが抜けると、私の研究の仕事にまで波及し、しどろもどろになって怠惰の日々に落ち込む。
 そういえば、プロデュース企業で仕事をしていたときも、この4月~8月迄は種まきであり、比較的普通の暮らしをしていたことを思い出した。それは年度末を3月シメとする我が国の習慣が影響しているからである。
 この時期季候もよく、暇であるというのは大いに結構ではなかいという意見もあるが、そうであれば、ブログを書く話題もないということでもある。今日は閑話だな!。

京都市・京都府立植物園,2010年5月24日撮影.
Fuji FinepixS5pro,AF MicroNikkor60mm/f2.8.
シャッター:1/125,絞りf8.ISO100,カラーモードF2.
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京都暮らし334. 伏見へ!

2010年06月09日 | Kyoto city
 先日の午後遅がけに、伏見、酒蔵と歴史コース、22kmのサイクリングに出かけた。
 京都駅から鴨川を下り、勧進橋を渡って、東高瀬川沿いの堤防上の一車線道を土建屋の大型トラックにクラクションを鳴らされながら、この辺りは気性の激しいところだと思いつつ、ひたすら南下し、いくつかの橋を通過するとやがて松本酒造の酒蔵が見えてきて、伏見まで来たことがわかった。京都市内から伏見まで、ひたすら川沿いを走ってきたわけだ。
 ここから左折し旧市街地へ入ってゆくと寺田屋がある。今も寺田屋はあるが、再建説があり、往事の建築かどうかはわからない。だが概ねこの辺りで、江戸末期の寺田屋事件が起こり、坂本龍馬が九死に一生を得て、伏見から船で鹿児島に逃れた。そして鹿児島で寺田屋のお龍と日本初の新婚旅行をしていたわけだ。
 司馬遼太郎の「龍馬が行く」を読むと、坂本龍馬が寺田屋に投宿し、しばしば京の都に通っていたとする記述がある。伏見から船を使えば、京の土佐藩邸や幕末の志士達が闊歩した木屋町筋まで容易に往復出来たということが実感として理解できる。そして伏見は、新撰組に追われる龍馬にとっては逃げ出しやすい場所だったのだろう。
 こうした歴史経緯を思い起こすと、伏見は京の都にも大阪にも通じる海運交通の中継点であり、水運の街だったことを感じさせてくれる。
 私は、伏見港公園で折り返し、帰路は暮れなずむ伏見街道をひたすら北上した。御香宮、藤森神社、伊藤若冲の石峰寺、伏見稲荷、東福寺、泉涌寺をかすめて行き、京都駅にたどりついた。大分長い距離を走ったが、伏見は私の脚力で行ける距離であるが、ただし二度と行きたくはない。やはり伏見よりは、都心の方が面白い。
 このときの撮影機材は、GF1にパンケーキレンズを付けていった。本来なら20mmの超広角レンズに該当する故だろうか、背景がぼけることを無視して、なにもかもオートでシャープに撮しまくるレンズだ。伏見の撮影画像を見ていると曲を感じる。この街の曲なのか、撮影機材の曲なのか......。

京都市伏見区・松本酒造,,2010年6月4日
PanasonicGF-1,G20mm,f1.7,ASPH..
シャッター1/1000,絞り4, ISO100,スムーズB&W.
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京都暮らし333. ズミクリング!?

2010年06月08日 | Kyoto city
 先日手始めに、サイクリングマップに掲載されていた近代建築コース、9.8kmを自転車で徘徊した。市内の近代建築、あの明治の巨匠辰野金吾からヴォーリズまで、京都は近代名建築にことかかない。いづれも散々眼にした建築であるのだが、やはりこれを巡るコースは、これまでに歩いていないところがある。そういう意味で再発見のルートである。
 そんなコースを走っていると、新町通の一角に、蔵を建ち並べたもろみ屋さんがあった。市内の街中にこうした蔵が続く風景とは珍しい。しかもこの道を下ると京都府庁なのである。そんな予想外の再発見もあるところが、サイクリングマップのコース設定の妙味である。
 こういうときに首からぶら下げたまま自転車に乗れる撮影機材は、GF1だろうか。何しろ小さく軽くてよい。ただし、最近感じるのだが、パナソニックはFinepixS5と比較すると、明らかに渋い赤-紫系の強い発色傾向がみられ、当然盛大に白く飛び、色があまり良いとは言えないと断言できる(マイクロフォーサーズ・タイプの機材ならばオリンパスペンをお勧めするかも知れない)。だから、最近はモノクロームで撮影している。モノクロームも古都には、よく似合いそうだ。
 レンズは、ピントがマニュアルと面倒なのだが、ボディにつけたスタイルが格好良いという単純な理由で、使い勝手の悪いライカM3時代の銘玉8枚玉ズミクロンを使用した。さてどうなるかと思って撮影画像を見たら、ちゃんとシャープで綺麗に写るではないか。それも見るからにシャープだというのではなく、控えめに、だがよく見るとシャープだという上品さである。ヘッヘェーである。やはりモノクローム時代の銘玉である。調子に乗ってカラーで撮影したら、さすがに見事な古色蒼然とした発色であり、これは被写体を選ばなければならない。
 当然だが撮影画像も被写体や光の状態で当たり外れがあるが、赤い小さなボディにクロームメッキの小振りなレンズは、少ししびれるぜ。 こうしたGF1に、古いズミクロンを付けてサイクリングに行くことを「ズミクリング」と呼んでおこう(笑)。
 そんなわけで最近の余暇時間のすごし方は、待望の雨が降ったらツァイスでマクロ撮影、天気が良ければ仕方なくズミクリングとなりそうだ。

京都市・沢井醤油本店,2010年6月4日
PanasonicGF-1,LEITZ WETZLAR SUMMICRON,f2.0/35mm.
シャッター1/400,絞り8,露出補正-1/3, ISO100,スムーズB&W.
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京都暮らし332. サイクルライフ

2010年06月07日 | Kyoto city
「京都自転車マップ」(注)というガイドブックが市販されていて、この市内版では、京都の街を中心に、自転車が走りやすい道路や自転車屋、駐輪場などの情報が掲載されている。なかでもテーマ毎に1~2時間程度の13コースが設定されており、先日その三つを回ってみた。
 実際に各コースを走ってみると、街の面白いところを巧みにつなぎ、しかも車が少ない自転車の走りやすい道を選んでコースが設定されていることがわかる。そして私が今まで通ったことがない道などがあり、結構面白い経験が出来た。今まで割と同じような道ばかりを歩いていたと実感する。
 こうしたことができる背景には、都市の大きさが関係している。つまり京都の市街地は、東京や名古屋に競べれば、はるかに小さいのだ。例えば市内の多くの観光名所などは、私の所からだと自転車で30分以内と、比較的容易に行ける位置に点在しているのである。それに山越えをしなければ、市内の多くは土地が比較的平坦で自転車が走りやすいこともあげられる。
 また京都市内は道幅が大変狭い。中型車だと、一度のハンドル操作では曲がれない狭い十字路も多い上に、物理的に中型車が入れない道もある。だから京都市内では、昔から圧倒的に軽自動車が多いのである。それに京都人の運転は大変お上品なのである。つまりマナーが大変良いわけだ。
 だから京都市内は、大きな荷物さえなければ自転車の方が圧倒的に便利なのである。自転車都市或いは車にあまり依存しない構造の街といってよいだろう。そんな狭い範囲のなかに多くの商店、そして銘店があり、美味しい食材をと思えば、先ずは自転車で買物にゆくことができる。
 そんなわけで今朝の食材は、自転車で10分程のところにある丸木製パンで調達してきた。店の前には、朝早くから近所の人達のたくさんの自転車が群がっていた。
 さて今日の京都の天気も崩れてきたようだ。明日は待望の雨予報だ。マクロレンズを持って植物園にでかけ、昼は進々堂のトルティーヌだな。

注:LLP自転車ライフプロジェクト・NPO法人環境市民:京都自転車マップ市内版,西日本出版社,2010.

京都市・京都府立植物園,2010年5月24日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/250,絞りf4.露出補正-1/3,ISO400,カラーモードF2.
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京都暮らし331. うざったい!

2010年06月06日 | Kyoto city
 最近のこのブログでは雨の日のマクロ撮影が続いている。そうはいっても、雨はなかなか降らないので、晴天日に自転車でタウンハイクに出かけた際に、小さなデジカメで少しは街の風景も撮影している。撮影後の画像をみると、曲(くせ)みたいなものを感じる。それが街の個性なのか、撮影に出かけた私の気分なのか、いつもの機材でないためかはわからない。
 そういう曲がうざったく感じる事がある。多分気分がのらないときなのだろう。そこへゆくとマクロ撮影では、そんなうざったさがなくて相変わらず画像をアップさせているわけだ。
 ところで「うざったい」という言葉をWEBで調べると、江戸時代に使われいていた「うざうざ」という擬態語を形容詞化してものという解説があり、似た種類の者が沢山集まっている様子や、つまらないことをくどくど言う、とする解説があった。一般的には「面倒だ」とか「わずらわしい」といった1980年代の若者言葉であったのだが、古い語源があるようだ。もちろんWEBという稚拙で簡便安易な調べなので、本当のところははわからない。
 こう書くとWEBを信用していないみたいだが、はい!、私は仕事ではWEB情報を全く信頼しておりませんし、使いません。むしろ使えないと言った方が正確だ。つまり原稿を書くときは、WEB情報では検索の手段としては使いますが(専門情報はgoogle検索でもヒットしません!)、多くのWEB情報そのものは、なんの客観的な論証も、引用の出典も記載されていない上に、執筆者名(バンドル名ではない!!)もない上に、サーバーの管理者の気分で情報を消せるといった具合に、全てにおいて無責任きわまりないのである。だから、そんなええ加減なWEB情報は使えないといった方がよい。
 つまり私のように原稿を書く人間にとって、検索程度にしか使えないWEB情報というのは「うざったい」のである。使用範囲は、せいぜいブログどまりです。

京都市・京都府立植物園,2010年5月24日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/250,絞りf8.露出補正-1/3,ISO1250,カラーモードF2.
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京都暮らし330. 空梅雨かい!?

2010年06月05日 | Kyoto city
 今の京都は、飛びきり暑いわけではないが、それでも外を歩くと夏の気候を感じさせてくれる。だが夕方になって涼しくなる頃は湿度もなく快適だ。今年は冷夏だという巷の噂だが、ホントだろうか?
 ここのところ晴天日が続いている。そんなわけで、暑いときはデジカメではたいして写らないし、撮影に出歩く気候ではない。むしろ空梅雨ではないかという懸念の方が個人的には大きい。
 私は、6月というのはメランコリーな季節のように思える。例えばの話だが、日々生活ストレスを溜めているヒトが、なんの脈絡もない眼前のマンションの灯りを契機として、突然躁鬱病になるということがあると私は推測している。私もああこうなると躁鬱病になるかなと思う手前で、ずるくも(根が元もといい加減だから)健常な思考に戻るのであるが、世の中ではそのまま突き進む真面目人間もいるのだろう。
 そうなった時は、医学の力では治らないと断言しておこう。つまり当事者にとっては余計なお世話だ。治し方!?、それは当事者が馬鹿馬鹿しいと気づくほかないでしょうね。だから精神科医が処方する薬だって、睡眠薬かビタミン剤の延長でしかない。飲んでも飲まなくても一緒。少し話題がそれたか。
 つまり6月が空梅雨だったら、私も一寸躁鬱病になりそうだ。なにしろ雨の日の美しい古都の撮影に出歩けないからだ(笑)。ただ6月の雨降る中を飲み屋にしけこみ、雨音を聞きながらお酒を飲むというのは、実に日本的な風情や季節感があって好きなんだけどね。

京都市・京都府立植物園,2010年5月24日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/250,絞りf4.露出補正-1/3,ISO640,カラーモードF2.
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京都暮らし329. ラチチュード

2010年06月04日 | Kyoto city
 昨日の京都は、気温28度で少し暑く入道雲がたちあがり、街では日傘をさしている姿が見られた。午後からは遠雷の音が聞こえ夏の時間のようでもある。
 前回述べたラチチュードについて加筆しておきたい。例えば仕事柄、露地沿いにある京都の町屋などを撮影するのだが、晴天日だと、周囲の空の光や道に露出を合わせれば町屋は黒くつぶれるし、町屋に露出を合わせれば、逆に空や道は白く飛んでしまう。つまり1枚の画面のなかでも、輝度差が大きいので、このような現象が起きるわけである。その両方を撮影しようとすれば、曇り空か夕方のような輝度のバラツキが少ないときに撮影する他ないのである。
 デジタルの世界では、リバーサルフィルム並にラチチュードが狭い。従って輝度差の大きい被写体は撮さないのに限るの。言い換えれば撮せない被写体が晴天日には数多く発生するということである。そんなことを言えば、何のためのデジカメかと思われるだろうが、厳密に言えばそれがデジカメの仕様である。人間の眼或いは意識が白く飛んでいても(つまり情報がなくても)、画像として認識しているのである。
 今日の画像のように、雨の日で少し薄日が射すぐらいだから、白く飛ばずに空も薔薇もそこそこに描写されているのであり、晴天日ではこのようにはゆかない。従って曇りや雨の日こそ、京都の撮影日和なのである。ただし他所の土地のことは知らんぜ。
 こうした経験を踏まえると、撮影機材というのは、ホントに光の産物だと実感するわけである。

京都市・京都府立植物園,2010年5月24日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/1000,絞りf4.ISO100,カラーモードF2.
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京都暮らし328. 最近のこだわり

2010年06月03日 | Kyoto city
 ようやくいつもの雨の日の接写の画像に戻り、ペースが戻ったようで私はホッとしている。
 最近、フィルムと比較するとデジカメのラチチュード(再現できる画像の範囲)の狭さが大変気になる。晴天日のようにコントラストの大きな被写体では、画像が白く飛んだり逆に黒くつぶれたりと、デジカメの狭いラチチュードでは撮影できない被写体が多い。つまり驚くべきことに晴天日にデジカメは、使えないということになる。それに京都の晴天日は、この時期から暑いから、外に出ないことだな。
 だから雨が降らないと、私は撮影に出かける気分にはなれないというのが最近のこだわり方である。それに京都は、断然雨の降った風景の方が美しいのである。
 もう一つこだわっていることに、2本のカールツァイスの単焦点マニュアルレンズがある。もちろん性能は言うに及ばすであり、最近このレンズで撮影することが圧倒的に多い。そうなると、他社製ズームレンズの画質の悪さが目に付き、使う意欲が全くなくなる。マックの23インチモニターで見ていても、撮影画像の写り方が歴然と違うことがわかる。最近、この2本のカールツァイスがあれば十分だなと思っているので、他社の撮影機材には全く関心が及ばない。
 そんなときに、もし中国へ調査に行かないかいと誘われたら撮影機材をどうするかを考えた。中国は色を気にする必要がない上に調査優先で撮影は二の次かも知れない。そんなときは例の手元にあるキャノン・EOSシステムだ。これならば、長江の長雨に打たれようと、ゴビ砂漠の砂にまみれようと、民家の屋根裏に潜り込んでポロポロになろうと、旅費が足りなくなったら中国人に売ってしまえる便利さがある。皮肉にもキャノン・EOSシステムは、それ位に未練のない、こだわりの持てない優れた(!?)道具なのだろう。

京都市・京都府立植物園,2010年5月24日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/25,絞りf11.ISO1600,カラーモードF2.
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京都暮らし327. 歴史的感性

2010年06月02日 | Kyoto city
 さてまた普段のブログに戻ろう。天候の話を書くと、適当に画面が埋まり私にとって都合良いが、そんな話ばかりでは飽きられること必須。といって今日は、大した話題もない。ならば画像であげた舞楽「蘭陵王」の話題でも。
 WEBで調べると、「中国南北朝時代末期、北斉の蘭陵王・高長恭は勇猛果敢であったが余りにも美しすぎたために、敵を威嚇できないことを残念に思っていた。そこで、彼は醜悪な仮面を着けて戦いに挑み、大勝を博した。彼の勇猛な姿を舞にしたのが、舞楽「蘭陵王」である」と解説されている。醜悪な仮面と独特の衣装を着け早いテンポの曲に合わせて舞うので、現代人の視点で見ても面白い。平安時代の感性が生きている。
 今日の画像にあげた三船祭の「蘭陵王」には、醜悪な仮面がない。WEBによれば、女性や少年少女が舞うときは、桜の挿頭花を挿した前天冠を着け舞台化粧をし、とあり船上で奉納される15歳位の少女の舞が妖艶であることに変わりはない。
 話題は飛躍するのだが、東京生まれだと、江戸・徳川文化で歴史的感性が形成されるのであるが、個人的には江戸・徳川の、やたらに金を張り巡らして権力を誇示する田舎くさい下品な感性は好きになれない。映画やテレビの時代劇でも、貧乏人と権力者とが相対峙する二極化した構図は馬鹿馬鹿しいし、いまだに下町情緒なんて観光の旗印にしているが、戦争で全部焼けちゃったのに、なんでそんな珍奇なことができるのかい。とまあ江戸・東京時代は歴史的につまらない時代だというのが私の実感である。
 それだけに、遣唐使を通じて国際交流をしていた平安時代前期、唐の史話をもとにしてつくられた舞楽蘭陵王を見ていると、今見てもテンポの早い舞曲もコスチュームも洗練されており、これがつくられた時代に想いが及ぶ。それはどんな歴史的感性の時代だったのだろうかと興味も湧いてくるのである。
 ようやく、話題が広がって本日のブログとなった(笑)。

京都市・嵐山,2010年5月16日撮影.
EOS40D,EF100-400mm,f3.5-5.6,
シャッター:1/1000,絞りf5.6,焦点距離400mm,ISO400.
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京都暮らし326. ポスター第2弾

2010年06月01日 | Kyoto city
 ポスターシリーズの第二弾は、拙者の小さな家の紹介である。この画像のように編集をすると、そのまま葉書に印刷して転居通知にできそうだ。普段何気なく撮影しておいた実に雑な写真を用いて、adobe indesignで制作した。
 実に雑な写真とは、下部にテーブルやガスストーブやスパゲッティ状態の電気の配線などが見えているのだが、そんなものは画面からカットしている。それにもう少し光をあてて左側の納戸の桟ぐらいは描写したがったし、通例のCM撮影ではカットされるテレビをどかせば、背後の客間の様子や格子戸が描写できただろう。
 あわよくば赤い傘をさした和服の麗人などが格子戸にうつり露地の風景が垣間見えると、JRのポスター「そうだ京都へ行こう」シリーズになる(笑)。
 こうして写真にコピーやメッセージを加えて編集すると、写真が持つ以上の多くの情報を伝えられるところが編集デザインの魅力的な点である。ただし少しばかり手間もかかるので、お気楽なwebのブログ用というわけには、ゆかないだろう(笑)。

京都市,2010年2月5日
LumixGF-1,G f1.7/20mm,ASPH.
シャッター1/25,絞りf1.7,ISO400.
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