
トップの画像は、東京湾臨海部副都心の事業コンペで、アメリカの商業建築家ジョン・ジャーディ(1940年-2015年)が最初に描いたデザインコンセプト・スケッチの部分である。ジャーディは、グレイブスのような写実的なスケッチは描かない。むしろ空間の作り方の概念スケッチといってよく、それは公開されることはない。
私はプロデュース企業で、このコンペのためのディレクションを委託者の三菱地所の優れた担当者と一緒に仕事をしていた。
そんな建築コンセプトが完成し、かっての丸ビルの三菱地所の大会議室で役員達に対するプレゼンテーションが行われた。もちろんジョン・ジャーディがアメリカから駆けつけた。私は三菱地所の担当者と並んで会場の一番奥隅の目立たない席からプレゼンテーションの成行を見守っていた。
地所の担当者と小声で「どうなるんでしょうねぇー。景気が悪くなるみたいですよ。」と会話をしていた。そう当時はバブル絶頂期で、もうこれ以上は上にゆかない所まで経済崩壊のイエロー・シグナルが出始めた頃だったのである。
私は、遠くから見ていると建築家もタレントだと思っていた。いや、建築家にはタレント性が必要なのだ。それは建築という超専門分野と社会を繋ぐ架け橋として必要な資質だったのだろう。
私達の予測通り、この事業は1年後に中止となった。それは建築の設計が全て完了し、これから建設工事に取りかかる直前だったのである。不動産屋の先読みの力量に驚かされた時だった。
時を同じくして私のプロデュース企業は、ジョンジャーディを福岡地所につれてゆき、当時の鐘紡工場跡地開発のスケマティックデザインを描かせた。そのスケッチが完成した頃、私達は福岡からも手を引いたのである。バブル崩壊の足音がヒタヒタと近づいてきた頃であった。
その後私達の予想に反して、福岡地所の並外れた博多っ子気質で完成されたのがカナルシティ博多である。
ジョン・ジャーディも5回目の結婚をした後だから乗っていたし、カナルシティ博多は彼の晩年の大作となった。彼は、ホートン・プラザ、ロサンゼルスオリンピックの会場演出、ラスベガスのホテルベラージォ、六本木ヒルズ等など美しい作品の大半を今でも見ることが出来る。ボスト・モダニズム様式が綺麗に昇華されてきたのである。


参考文献:JOHN JEORDE:YOU ARE HERE,PHAIDON,1999.
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