☞ The Narrow Way Dr Steven J Lawson
39分18秒から43分28秒まで。
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個人的にキリストへと至るために、群れとの関係を断つ必要があります。
群衆との関係を断つ必要があります。
マタイ9章9節を開いて下さい。
この狭き門を突破した2人の人物のことと、この小さき門を通り抜けることについてイエスが語る必要があったことなどを紹介しようと思います。
私が今夜話したいことは、イエスが話したこと以上に、この門を広げようということではありません。
その門は小さな門。
マタイ9章9節。
こちらへ歩いてきた時、イエスはマタイという名の男が取税所に座っているのを見た。
彼はこの世を心において愛していた。
彼はこの世の富を手にしていた。
財産があるということに関しては何も悪いことはないのだが、財産があるためにすべてがおかしなことになっていた。
マタイが取税所に座っていた。
彼は世を重視しており、世の友であり、世とともに生きていた。
マタイの人生は、肉の欲、目の欲、驕り高ぶりの人生だった。
世のシステムの中にどっぷりと浸かっていた。
9節、イエスは彼に言った。
4つの福音書の中で、最も出現頻度の高い福音への招待がこの箇所。
単純明快、「私に従いなさい。」
イエスに従うために、自分以外のすべてを捨てる必要がありました。
教会に従うのでもなく、人に従うのでもない。
規則に従うのでもなく、道徳に従うのでもない。
私に従え。
あなたの命を私に委ねよ。
私のためにすべてを断念せよ。
その場から立ち上がれ。
信仰によって動き出せ。
あなたの命を預けよ。
私について来なさい。
皆が一つになれ。
この世の何処かに行こうと言っているのではない。
来る日も来る日も、あらゆる瞬間・場面において、私に従えと言っているのです。
これが狭き門から入ると言う意味。
この中には小さな紙があります。
その紙にはこう書いてある。
毎朝起きて、両足を床に付けた瞬間から、その日の目標は私に従うことであり、私を満足させることであり、私について来ることであり、私を愛することであり、私に仕えることになる。
私があなたの人生のすべてだから。
以上のことゆえに、パウロは言うのです「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益(ピリピ1:21)である」と。
キリスト以外の何かのために生きるのなら、死ぬことは損失です。
しかし、キリストのためにのみ(solo Christoph's)生きるのなら、死ぬことは必ずや益となるであろう。
マタイ10章32節。
御国に関する説教を宣べさせようと、イエスは弟子たちを送り出します。
その説教において、イエスは必要なことを説明し始めます。
今日それは私たちにも伝わってきますが、この説教の意味が弱められることはありません。
この説教に応答する人が狭き門から入る人です。
それ以外の人は、クリスチャンのふりをしているだけです。
次、32節。
マタイ10:32
ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。