みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#26 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 12 

2023年09月24日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

43分28秒から47分10秒まで。

◇◇

人前で私を告白するという意味は、単にことばにするということではありません。

私に向かって、主よ主よと言う人がみな天の御国に入るのではないと主は言いました。

キリストということばで空気を満たすだけでは、あなたは救われません。

頭のてっぺんから足のつま先まで全身全霊において、かつ心の底から、イエスキリストは私の命の主であり、主は私の救い主であると認めるなら、私の父の御前で私はあなたを認めるとイエスは言いました。

イエスが父の御前で認めないのなら、あなたは天国に入ることはできません。

33節、しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。 

34節、わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。 

35節、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

36節、さらに、家族の者がその人の敵となります。

この箇所でイエスが呼び求めていることは、無敵かつ絶対的王権であり、主に対する忠誠であります。

これが狭き門から入ることの意味です。

ただ単に自分の人生にイエスを付け加えるということではない。

今やイエスは私にとってすべてである。

37節、わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

あなたの心の中には、もはやイエスと肩を並べるほど愛する人はいないのです。

この狭き門を通ると、キリストを愛するところへと至ります。

あなたはキリストを切望し、あなたの心と愛、そして感情をキリストへと向けます。

わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

マタイ12章30節。

わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。 

「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者」とは、中立はないということ。

徹底的にキリストの味方か、あるいは徹底的にキリストに敵対する者か、のいずれかしかない。

狭き門を通るとは、キリストに対する忠誠を誓うということ。

つまり、徹底的にキリストの側に立つということ。

マタイ16章24節。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら」とは、だれでもクリスチャンになりたいのなら、ということ。

誰でも私の弟子になりたいのなら、誰でも狭き門を通りたいのなら、自分を否定しなければならない。

あなたは自分を終わらせなければならない。

キリストにあってすべてを得るために、あなたは自分、自分であること、自分というものを否定しなければならない。

そして、自分の十字架を背負う。

それが死の意味。

キリストは(命を)始めるのではなく、まずは終わらせようとする。

まずあなたが死んで、そしてキリストの命があなたの内で始まる。

あなたの内で生きている命は2つではない。

自分のために生きるか、それともキリストのために生きるのか。