みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffe break, #36

2015年11月15日 | コーヒーブレイク
There are so many things which He demonstrated for us that we cannot put them
all down in the books of this world.





The Flesh And The Spirit, #10

2015年11月15日 | 聖書研究・信仰
神による聖なる勝利の方法とは、許可がなければ我々は何もしないことだ。

何も-とは、キリストからさまよい出て、何も-という意味だ。

我々が自分から動けば、危険極まりない状況に至る。

何故なら、我々は誤った方向へと流れていく傾向が強いからだ。

では、どこに助けを求めればよいのか。

ガラテア5:17a
肉は霊に対抗して情熱を燃やす
霊は肉に対抗して情熱を燃やす
これらはお互いに反発する

肉に対抗し、それを取り扱うのは、我々ではなく聖霊。

結果はどうか。

ガラテア5:17b
それ故、あなたがたがしたいと望んでも
あなたがたはそれらをすることができない





Coffee Break, #35

2015年11月14日 | コーヒーブレイク
https://www.youtube.com/watch?v=PP9BjKnDaFk




The Flesh And The Spirit, #9

2015年11月14日 | 聖書研究・信仰
その兵士は戦車の中に留まっていたら、完全に無事だった。

兵士を外の空間に引きずり出すように、その計画が考え出された。

同じように、サタンの誘惑は、我々に罪を犯させるだけでなく、独力で行動するように仕向ける。

このように、我々が隠れ家から出て何かをしようとするや、すでにサタンの術中に嵌ってしまっているのだ。

動かなければ、キリストの蔽いから出て肉の領域に入り込まなければ、サタンに捕まることない。




The Flesh And The Spirit, #8

2015年11月13日 | 聖書研究・信仰

誘惑の目的とは常に何かをさせることだ。

日中戦争勃発後最初の数か月で中国は数多くの戦車を失い、日本軍戦車との戦闘が困難となった。

そこで、次のような作戦に出た。

茂みからわが軍のスナイパーが日本軍戦車めがけて一発発砲する。

しばらくおいてから、もう一発撃つ。

再度、ひと時の沈黙の後、もう一発狙撃する。

すると、周囲を探るために、戦車の中から兵士が顔を出してあたりを見回す。

注意深く狙いを定めて、次の一発でその兵士を仕留める。

(この日本軍兵士は見たいという誘惑に負けた)




The Flesh And The Spirit, #7

2015年11月12日 | 聖書研究・信仰
不幸なことだが、このような経験をすることは稀だ。

実は、絶えずこのような経験することが必要なのではないか。

聖霊が働けば、我々の側で頑張る必要はない。

歯を食いしばるのではない。

何とか自分をうまくコントロールできたとか、栄光の勝利を得たとか考えることでもない。

真の勝利のある所に、肉の努力は存在しない。

主ご自身が我々を勝利へと導き、栄光を与えて下さる。





The Flesh And The Spirit, #6

2015年11月11日 | 聖書研究・信仰
誰しも次のようなことを経験したことがあると思う。

ある友人に会いに行くように言われたが、その男は決して話しやすい人柄ではない。

あなたは主が何とかしてくれるだろうと大いに期待する。

出発する前に、自分では如何ともし難いと主にお願いをした。

そして、必要なことは皆、主に頼んだ。

するとどうだ。

驚いたことに、その男は相変わらず無愛想だったが、まったくいらいらしない。

帰る途中、この経験を思い返してみた。

驚くほどに平安だったではないか。

この次もそうなのだろうか。

自分に驚き、自答してみる。

聖霊が私を通してこれを成し遂げたのだと。






Coffee Break, #34

2015年11月10日 | コーヒーブレイク
https://www.youtube.com/watch?v=mLNL49TFC_8




The Flesh And The Spirit, #5

2015年11月09日 | 聖書研究・信仰
御霊にあって生きるとは、自分ではどうしようもないことを聖霊が成してくださることを信じるということ。

この生き方は、自分のやりたいように生きていた頃の生き方とはまるで違う。

主の新たな要求が出る毎に、その要求を主ご自身が私の中で成しているのを私は見届ける。

苦しまないように無理やり信じ込もうとするのではなく、ただ主の中に休息するのだ。

仮に私が癇癪持ちだったり、不遜な思いがあったり、口が悪かったり、批判屋だったとする。

それなら、自分を変えるための努力など始めるはずもない。

しかし、このような悲惨な魂の状態に対して自分はキリストにあって死んでいると悟っているなら、自分の中に必要な純粋さ、謙遜さ、素直さを生み出してくれる神の御霊に頼るであろう。

「じっと立ち、主の救いを見よ。主が代りに戦うであろう」(出エジプト14:13)





The Flesh And The Spirit, #4

2015年11月08日 | 聖書研究・信仰
私はキリストの中にいる。

そして、キリストが私の中にいる。

我々は水の中で生きることはできない。

同様に、キリストは肉でなく霊においてご自身を啓示する。

それ故、もし私が肉に従って歩むのなら、キリストにある私は私の中で中途半端な状態となっている。

キリストにあってと言いながら、肉の中で生きるのなら

すなわち、自分の力により、自分が進みたいと思う方向を向いて歩むのなら

私の中にあるものがアダムにあるものであることを知って、ひたすら狼狽えている自分を経験するであろう。

もし我々がキリストにあるものをことごとく経験したいなら、御霊において歩むことを学ぶ必要がある。