御霊にあって生きるとは、自分ではどうしようもないことを聖霊が成してくださることを信じるということ。
この生き方は、自分のやりたいように生きていた頃の生き方とはまるで違う。
主の新たな要求が出る毎に、その要求を主ご自身が私の中で成しているのを私は見届ける。
苦しまないように無理やり信じ込もうとするのではなく、ただ主の中に休息するのだ。
仮に私が癇癪持ちだったり、不遜な思いがあったり、口が悪かったり、批判屋だったとする。
それなら、自分を変えるための努力など始めるはずもない。
しかし、このような悲惨な魂の状態に対して自分はキリストにあって死んでいると悟っているなら、自分の中に必要な純粋さ、謙遜さ、素直さを生み出してくれる神の御霊に頼るであろう。
「じっと立ち、主の救いを見よ。主が代りに戦うであろう」(出エジプト14:13)
この生き方は、自分のやりたいように生きていた頃の生き方とはまるで違う。
主の新たな要求が出る毎に、その要求を主ご自身が私の中で成しているのを私は見届ける。
苦しまないように無理やり信じ込もうとするのではなく、ただ主の中に休息するのだ。
仮に私が癇癪持ちだったり、不遜な思いがあったり、口が悪かったり、批判屋だったとする。
それなら、自分を変えるための努力など始めるはずもない。
しかし、このような悲惨な魂の状態に対して自分はキリストにあって死んでいると悟っているなら、自分の中に必要な純粋さ、謙遜さ、素直さを生み出してくれる神の御霊に頼るであろう。
「じっと立ち、主の救いを見よ。主が代りに戦うであろう」(出エジプト14:13)