みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#15 終末預言 by R.C. Sproul

2021年12月15日 | 終末預言 
Christ Coming in Glory (Mark 13:24–36) — A Sermon by R.C. Sproul

配信第15回:10分02秒から14分12秒まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ開始)

マルコ13章には、いわゆる黙示録文学の標準的な文構造に従うような極めて躍動的な記述部分がある。

これは黙示録に見出される文学であり、ダニエル書においても、またエゼキエル書においても見られる文体。

これらの光り輝くイメージが抽象的様式において与えられ、かつ使用されている。

マルコ13章は極めて多彩な抽象的言語を含んでいることは、聖書研究者の間でもはや異論はない。

問題は、マルコ13章において、この抽象的言語が、直接的、通常的、直説的な文字言語の中に入り込んでいるということ。

そこに解答がある。

もしこの章をうまく理解したいのなら、聖書の記述全をそのままの状態で、イエスのことばもそのままの状態で理解したいと思うのなら、基本的に2つのうち1つのことをする必要があるのではないだろうか。

後で述べるような別のオプションもあるが、基本的には2つの選択肢に落ち着くと思う。

ひとつの方法は、イエスの再来に関することばを比ゆ的意味において理解し、時間枠関連を直接字義的意味において理解する。

あるいは、時間枠ということばを取り上げ、それを比ゆないし隠喩と理解した上で、イエスが再来した時に起きるであろう天文学的出来事ー天が血潮に変わったり、巻物のようにくるくると蒔かれたり、他の福音書記者がオリーブ山の説教において付け加られている他のすべての事々ーを文字通りに期待する。

このオプションを理解できるだろうか。

来臨ということばが比ゆ的なのか、あるいは時間枠ということばが比ゆ的なのか。

正統的福音派クリスチャンがマルコ13章を取り扱ってきた主な方法は、時間枠関連を比ゆ的と見ることによってだった。

「これらの事々すべてが成就するまで、この世代は滅びないであろう」とイエスが言う時、このことは、イエスは「世代」ということばを比ゆ的用法において使用したという考え方だ。

そうであるならば、イエスは、ある一定の時間枠を設定していなかったということになる。

しかし、イエスは「これらの事々すべては、次の40年やそこいらで成就しないであろう」とは言ってはいない。

一方、ユダヤ人にとって、一つの世代という概念はおよそ40年という期間を意味する。

主は、「この世代は滅びるであろう、これらの事々すべてが成就する時」と言っている。

つまり、私たちが福音宣教において毎日取り扱わなければならないのはこのタイプの人、このタイプの不信仰な人物であるということを、主が意味していたことになってしまう。

この預言が成就するその時まで人々は黙々と寄り集まっているであろうということを主が意味していたことになる。

さて、それが批評家よりマルコ13章を守るための通常よく見られるアプローチ方法ということ。

私は実に正直にあなたがたに言わざるを得ない。

マルコ13章をそのように取り扱うことは、批評家たちによって引火された火にガソリンを注いでいるようなものだ。

そのようなアプローチ方法は、彼ら聖書批判家たちに餌を与えているようなもの。

彼らは、伝統的クリスチャンを騙されやすくて、反啓蒙主義者と考えている。

何故なら、そのような解釈はマルコ13章を捻じ曲げているからだ。

コメント:

内容が非常に高度になってきているので、完璧に理解できるまでくり返し読み込んで欲しい。

3つのメッセージの読了後、分かりやすい解説を加える予定。