みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#20 終末預言 by T. Tomii

2021年12月24日 | 終末預言 
紀元70年以前に完結した話をそれ以降の歴史に適用してはならない17

頭でっかちになるのも考えものだが、論理的に聖書を理解するにはやはり訓練が必要。
そのためには、長い年月を経て練り上げられた先人の知恵や神学を学んだ方が良い。
独学はやはり危険。この記事の質問者のように誤解を生む可能性がある。
異端に引っかからないようにしっかりと学び、自分の信仰をdefenseする必要がある。

◇◇

ローマカトリックが管理してきたバチカン写本には、ご承知のように黙示録そのものがありません。黙示録を普通に読むと、ローマカトリック教会がどういう存在であるかがばれてしまうからです。黙示録を隠せなくなると、今度は反キリストの解釈を変えるという手に出ました。1つは未来に置く(ディスペンセーション主義)解釈、もう1つは1世紀の人物に限定する解釈(プレテリズム)です。 富井先生にRCを擁護する意思がないことは十分に承知していますが、プレテリズムがイエズス会士に始まることはRCも認めており、RCとプロテスタントの両方の間で共通の認識となっており、ほぼ定説化しています。プレテリズムのかなめは、すでに述べたように666反キリスト=ネロ説です。 イエズス会が力を入れて流行らせたものでも、それが聖書的に正しければ認めるしかありませんが、無理してひねり出したものであるため、やはり釈義的に無理があります。
Iヨハネ2:18子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。 2:19彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。 4:3あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。

1.
すでに申し上げたとおり、反キリストは黙示録の「獣」ではありません。
聖書の中において、反キリストは異端としか記されておらず、「ものを売ることも買うこともできなくする」ような政治的な権力を持つ者ではありません。

2.
既述のとおり、ダニエルの「荒らす憎むべき者」と黙示録の「獣」との間には共通性があります。

(1)
傲慢なことを言い、けがしごとを言う口(黙示録)
彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き(ダニエル)

(2)
四十二か月間活動する権威を与えられた(黙示録)
聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる(ダニエル)
(「ひと時とふた時と半時」は、1+2+0.5=3.5年。3.5年=12 x 3.5=42ヶ月。)

(3)
すると、獣は捕らえられた。・・・そして、・・・硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。(黙示録)
しかし、さばきが行なわれ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。(ダニエル)

「荒らす憎むべき者」は神殿を破壊します。

それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9・25-27)

「油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。」

ここで、「油そそがれた者は断たれ」は、もちろんキリストの十字架です。

その後に、「来たるべき君主」が現れる。

この「来たるべき君主」は、誰か。

「来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する」とあるので、聖所を破壊した民の王です。

紀元70年に聖所を破壊した民はローマ人なので、ローマ人の君主です。

このローマ人の君主は「半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」。

半週は、「ひと時とふた時と半時」、つまり、42ヶ月。

獣には「四十二か月間活動する権威を与えられた」(黙示録)。

ここで、黙示録の獣は、このローマ人の君主であるとわかります。

「荒らす忌むべき者が翼に現われる」は、イエスによって、「『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つ」と解釈されている。

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)(マタイ24・15)

至聖所に立ったローマ人の君主は誰か。
ティトゥスです。
つまり、獣はティトゥス。
これで議論は終わりです。
明らかすぎる。


(参考文献)
Sproul師によると
「さて、荒らす憎むべきものとして定義されているものについては、数多くの学者の意見がある。
ダニエルの預言は、紀元前2世紀におけるアンティオコス・エピファネスによって犯された冒涜によって成就したとする学者が多い。一方、ダニエルの預言は、1世紀の初めカリグラが統治する時代に成就したとする学者もいる。先週言及したように、カリグラは、エルサレムの神殿の立つ区域に、自分の銅像を一体以上建立しようと画策した。しかし、ユダヤ人が猛烈に反対したため、その計画は廃止された」

とあるように、ローマ皇帝の一人カリグラという説もある。しかし、最も有力なのはやはりティトス。

「彼は他の村に住んでいる将兵だった。彼が率いる部隊全員と彼が住んできた村の人々全員が殺され、彼一人だけが生き延びた。ローマ人に捕えられたが、偉大なる勇気と知識ゆえに、彼はティトスと親しくなった。一方、父親が皇帝となるためにローマへと呼び戻された時、父親からパレスチナ侵攻のリーダーシップを受け継いだのがティトスだった。彼はローマ軍によって投獄されている時、エルサレムを破壊しないようにティトスに嘆願した。ユダヤ人に降参するように懇願しつつ、ローマ人とユダヤ人との間の停戦を交渉する仲介者として、彼はティトスによって起用された。ローマ軍がエルサレムを破壊するためにやってきた時のことを思い出して欲しい。彼らはエルサレム内に進軍し、その町を破壊することはなかった。エルサレムは城壁に囲まれた都市であり、全ローマ人がエルサレムを包囲するために長い年月を要するほどの難攻不落の要塞のように思われた。その包囲網の中、ヨセフスは白旗を掲げながら、城壁都市の中にいる人々に話しかけた、「お願いだから、投降してくれ」と。もし投降しなければ、一人残らず殺されることをヨセフスは知っていた。ヨセフスにとってこれよりなるかに重要なことは、あの聖なる神殿が破壊されるのを絶対に見たくはなかった。これらの出来事に関する彼の記述は極めて重要だ。しかし、いずれにせよ、ティトスが聖なる所へと進入し、紀元70年にそこを破壊した出来事をヨセフスはダニエルの預言の成就と考えた。「ユダヤにいる者たちは、山に逃げさせよ」と、イエスは言った。人々に逃げるよう命じているのはイエスご自身だ。他の所で、イエスは「エルサレムが軍隊に取り囲まれるのを見たなら、山へ逃げよ」と言っている。先週、私は「ユダヤ民族の最初の大きなホロコーストは、エルサレム崩壊とともに起こった」と告げた。その時、110万人ものユダヤ人が虐殺された。しかし、不思議なことに、クリスチャンは虐殺された人々の中には含まれてはいなかった。

3.
エドワード・ヘンドリーは、以上について反論できないでしょう。
そして、マタイ24・34も解釈できないでしょうし、その他100箇所ある「再臨がキリストと同時代に起きることを示す聖句」にも答えられないでしょう。
ここに「ヘンドリーの取り組み方に偏りがある」と感じています。
釈義をしない。外部的な資料から推測するのはよいとしても、聖書は聖書によって解釈するのが原則なので、まず、私が示した獣がティトゥスであるということを釈義的に否定するのが先だと考えます。

4.
それから、プレテリズムの起源はカルヴァンであるとすでに申し上げました。
なぜならば、黙示録20章の千年王国を「教会時代」に設定しているからです。
ということは、再臨(カルヴァン主義者は「来臨」と呼ぶが)も含め、黙示録19章まではすでに紀元1世紀に起きていると考えていた。
しかし、時代的にまだプレテリズムの内容が深く掘り下げる時期ではないので、あいまいな点がある。宗教改革者がローマ・カトリックを獣と考えたのも、まだ光に照らされていなかったということでしょう。
リフォームドは「常に改革されるべき」という意味で、カルヴァン主義者は「すでに完全になった教理を持っている」と主張していません。時代とともに明らかになる教えがあるという前提を持っている。

5.
プレテリズムをもっぱらローマ・カトリックの陰謀と考えるならば、ケネス・ジェントリーやデイビッド・チルトン、ゲイリー・ノースも、異端として断罪せざるをえなくなります。これは、行きすぎです。なぜならば、フルプレテリズムは別として、プレテリズムそのものは正統派の範囲に入っているからです。逆にエドワード・ヘンドリーが異端扱いされかねない。

6.
ローマ・カトリックが「自らを獣として見られたくない」という意図があったとしても、それが、「プレテリズムはそのための教義だ」とは結論できません。なぜならば、プレテリズムは、釈義的に筋が通っているからです。すでに述べたように、聖書には「再臨が紀元1世紀に起きる」事を示す箇所が100箇所以上あります。逆に、歴史主義は、これらの箇所に合理的な解釈を行っていません。もし歴史主義の言うとおり、「再臨が世界の終末に起きる」ならば、では、マタイ10・23で、イエスは弟子たちに「イスラエルの町々を巡り終える前に戻ってくる」と告げられたのをどう解釈するのでしょうか。マタイ16・27-28において、イエスは弟子たちに「あなたがたの何人かが死ぬ前に戻ってくる」と言われたのをどう解釈するのでしょうか。マタイ26・64において、イエスはカヤパや律法学者たち、長老たちに向かって「あなたたちは、裁きのためにイエスが戻ってくるのを自分の目で見る」と告げられたがどう解釈するのでしょうか。ルカ21・ 22、32において、イエスは弟子たちに「すべての預言はあなたたちの世代において成就する」と言われたがどう考えるのか。36節で、イエスは「今挙げた出来事は、まさに起ころうとしている」と強調したが・・・。ヨハネ黙示録1・1-3と22・6-20で、イエスは紀元1世紀の信者たちに「すぐに戻ってくる」と告げ、「黙示録の出来事はすぐに起きなければならない」と言われたが・・・。