みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#12 終末預言 by R.C. Sproul

2021年12月11日 | 終末預言 
The Signs of the Times (Mark 13:9–20) — A Sermon by R.C. Sproul

配信第12回:21分59秒から最後まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ続き)

何故なら、これから来るはずの艱難について、イエスが警告を発したから。

イエスは、ご自身の民に山の逃げるように命じた。

敵が侵攻して来ようという時に山へ逃げよという忠告は、古代の世界においては全く普通の戦略だったということが良く理解できたのはないか。

侵攻してくる軍を最初に目にした時すべきことは、自分の住んでいる村から脱出することだった、

しかし、その後彼らは何処へ行ったのか。

彼らは丘へと向かって逃げることはなかった。

彼らは山へと行くことはなかった。

彼らは城壁に囲まれた都市へと急いだ。

そこは、彼らが最も安全であると信じていたところだった。

当時のエルサレムの人口は、通常110万人を下回っていた。

エルサレム崩壊の時それほど多くのユダヤ人が殺害された理由は、ローマ軍が侵攻して来るやいなや、それを聞いたすべての村人たちがエルサレムを目指したからだ。

そこが安全だろうと思ったからだった。

しかし、クリスチャンたちはそうしなかった。

イエスがそうするなと命じていたからだ。

主は他に何を言ったのか。

屋根の上にいる者は、家の中へと戻らせるな。家にあるものを取りに戻るな。

事が起きるのを見たらすぐに山へと進んでいけ。

かばんを取りに戻るな。畑にいる者は、着物を取りに戻らせるな。

妊娠している女たちにとっては災いだ。その時子どもの世話をしている女たちにとっては災いだ。

あなたがたの脱出が冬にならないことを祈れ。

「というのは、その日々には、神の創造の初めからその時まで見たことのないような艱難があるだろう。」

主がそれらの日々を短くしなかったなら、誰一人も救われないであろう。

しかし、主が選ばれた選びの民のために、主はその日々を短くした。

さあ、友よ。

皆さんは私以上によく知っていると思う。

マルコ13章に関して今日の文化や教会における基本的理解の仕方というのは、主イエスはご自身の栄光の再来に先立ち、時代のまさに終わりに起こるであろう艱難について話したという理解だ。

キリスト教テレビやラジオ番組をつけると、必ず誰かが、艱難、大艱難が近づいていると言っているのを耳にする。

また、艱難の前に、どのような形であのキリストがやってくるのかを説明しているのをキリスト教メディアが伝えているのを見聞きする。

しかし、聖書の中にそんなことを告げている箇所を、私はいまだかつて見たことがない。

いずれにせよ、前に言ったように、イエスは短期で成就する何かと長期で成就する何かについて預言したのかもしれないが、良く分からない。

しかし、主がここで話していることの完全なる成就を見出すために、紀元70年を超えて探ろうとしてはならないと思う。

何故なら、これは、紀元70年までのイスラエル史において最も大きなユダヤ人大虐殺であり、聖なる都市、聖なる神殿において百万人以上の命が奪われた。

しかし、栄光の雲に乗ってご自身が来られるという預言の残りのことばはどうなっているのだろうか。

主が弟子たちに与えた40年という時間枠の期待に対して、その預言をどのように適合させればよいのだろうか。

これほど重要な質問はない。

あなたがたは、リゴニア方面の町にいたので今朝ここにおられる。

なぜ私たちがともにいるかと言えば、この超難問の取り扱い方を見出すためです。

この重要問題は次回取り扱う予定です。

お祈りしましょう。

父よ。

あなたの信心深い弟子たちに対して、これらの約束を果たして下さり、私たちは大変喜んでおります。

あなたが殉教していったクリスチャンとともにいて下さったことに感謝いたします。

あなたは、固く立つことのできる希望を彼らに与えて下さいました。

あなたは、会堂にいるサンヘドリンの前で、この世の王や支配者たちの前で、話べきことばを与えて下さいました。

あなたは、1世紀のあなたの民のために、希望と話すべきことばを与えて下さっただけでなく、時代を超えて今日に至るまで、それらを与え続けておられます。

この預言の成就は遠未来にあったのか、それとも近未来にあったのかどうか教えて下さるようにお願い致します。

艱難が私たちのところに来るのであれば、イエス様のこれらのことばに注意を払おうと思います。

主イエスの御名によってお願いします、アーメン。