マタイ24章は終末預言か?Part2
「それだけであったら、現代の教会には不要な忠告」ということばは、1世紀に起きた劇的な霊的領域の大転換に関する知識の欠落を示している。あまりにも不勉強。以下の記事にあるように、「歴史的背景をふまえた上で、すべての時代に生きる人々への教訓としてしるされたもの」と表現すべきだ。オフィシャルな出版物として世に出すのであれば、なおさらのことそのように表現すべきだと思う。教会の檀上で私的に自分の私論を述べているのではないのだから。旧約時代において、自分の予言が成就しなかった預言者は偽預言者として処刑された。予言の内容によっては、人の生き死にに関わることがあるから当然と言えば当然の裁き。予言(宣言)するからには覚悟はできているのだろう。
Sproul師もあまりにも酷い解釈の仕方に憤りを隠せない。
弟子たちがイエスにまだはっきりしない点、「これらの事々は何時起きるのだろうか、これらすべての事々の到来のしるしは何ですか」を尋ねると、イエスは、これらすべての事々が成就するまで、この世代は過ぎ去らないだろうと言いながら、1世代の時間枠について言及した。そして、この預言のために、バートランドラッセルのような人々や現代の聖書批評家たちは「ほれ見ろ、聖書は信用できないし、イエスも信用できない。その世代の範囲内でこれらすべての事々は起こると預言したではないか」と言っている。この難問を取り扱うためにさまざまな試みが為されてきたと先週申し上げた。「世代」ということばの意味を再定義するようなものがあるが、正直に言って、そのような苦痛を伴う方法には我慢ができない。
◇◇
(Q)<この箇所は多くの学者によって、紀元七〇年の神殿破壊の予告であったと考えられている。しかし、それだけであったら、現代の教会には不要な忠告となる。むしろ、イエスは、それをも含めて終末の前兆への注意を述べ、すべてのキリスト者に終末に備えることを教えておられる、とみなすべきであろう。>(M氏)
(A)M氏の見解ですが、紀元七〇年の神殿破壊の予告だけであったら現代人にとって不要な忠告となる、というのはどうしてもいただけない解釈です。なぜならば、旧約聖書には、紀元前500年頃のエドム人やアッシリア人だけに向けて書かれた宣告があります。これらは、まったく現代人にとって無益なものとなるのでしょうか。そうではありません。聖書解釈の原則は、「聖書は第一義的に当時の人々に向けて書かれているのだが、それは、歴史的背景をふまえた上で、すべての時代に生きる人々への教訓としてしるされたものである。」でしょう。増田氏の解釈によれば、「エドム人に対する宣告というだけでは無益なので、それは現代についての預言も含んでいるに違いない」と考えなければなりません。そのような解釈を「読み込み」と言うのではないでしょうか。聖書は、私的解釈を施してはならないとペテロは警告したのではないでしょうか。紀元前500年のエドム人への宣告は、紀元前500年のエドム人への宣告以外の何物でもありません。それはもっぱら彼らにあてて書かれたのです。しかし、それを我々が読むときに、普遍的な教訓をそこから読みとれるのです。
神殿崩壊の前兆は、神殿崩壊の前兆以外の何ものでもないのです。それを現代人の都合に合わせるために、終末の前兆にすることは許されません。あくまでも、聖書は聖書に語らせるべきなのです。もし釈義的に終末預言と考えることも可能であるというならば、話は別です。しかし、ルカを読むと、「あなたがたが見ているこれらのものについて言う」と前置きがしてあって、前兆が語られるのです。これは、やはり、当時の神殿についての預言であって、終末預言と考えることはとうてい不可能です。
<終末前に全世界へ福音が宣べ伝えられるという一四説も(中略)終末が遅れるなら、それは宣教の任に当たる教会の怠慢が一因であることを示す>。(H氏)
これは、すでに掲示したように、神殿崩壊の前に全世界に福音は伝えられたのです。その全世界が、文字どおりの全世界かどうかは判りません。パウロやペテロやその他の人々が南米の奥地にまで福音を運んだかどうかはわかりません。おそらくなかったでしょう。しかし、聖書自体が「福音は第1世紀に全世界に伝えられた。」(コロサイ1・1・6、ローマ1・8など)と宣言しているのです。恐らく全世界とはパウロの時代の人々が考えていた意味での「全世界」であって、今日の地理的知識から見た「全世界」ではないでしょう。とにかく、聖書自体が語っていることを見ると、この前兆が当時すでに成就していたことが判るのです。
また、イエスが述べた「全世界」は、(当時の地理的知識の狭さゆえに)我々の全世界とは違うので、我々が考える「全世界」という概念を聖書解釈の上で利用すべきではなく、むしろ、コロサイやローマにおいてパウロが語った「全世界」の方がイエスの「全世界」に近いと考えるべきではないでしょうか。
注)当時の「全世界」の定義(考え方)については、すでにSproul師のメッセージの中で確認した。
使徒パウロがローマ人に手紙を書き送った時、福音はすでに今や全世界を通して諸外国へと伝えられたと、彼は喜びに満ちていた。私たちは言う、「ちょっと待てよ」と。当時、福音はアルゼンチンに届いていなかったじゃないか。福音は中国に届いていなかったじゃないか。福音はオーストラリアに届いていなかったじゃないか。福音はアメリカインディアンやエスキモー、全世界に届いていなかったじゃないか。パウロは地中海の世界、当時の世界、つまり、あの1世紀において、福音が宣べ伝えられていた世界について言ったのだ。
<エルサレム滅亡の際の苦難と世の終わりの苦難が15-22節で二重写しに語られているように思われる>(U氏)
このような「預言の二重性」説は今日流行していますが、世界の終末の苦難と考えることができないのは、掲示したように、「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(34)という結びの言葉があるからです。掲示しましたように、この時代とは「この世代」という意味であり、つまり、イエスが生きていたのと同時代の人々のことを指しているのです。とすれば、15ー22節も、イエスの同時代において起こると考えなければならないのです。
イエスは、「義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。まことにあながたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。」(マタイ23・35)と述べて、責任を特に、「この時代の上に問う」と述べておられます。つまり、イエスの時代のユダヤは「主の報復の日」を迎えようとしていたのです。それは、多くの預言者をつかわし、最後には御子までもつかわしたのに、ユダヤはそれを拒否したからです。神の寛容も限度が来たと、イエスは述べられました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」(マタイ23・37ー8)これを見てもわかるように、当時のユダヤは、歴史始まって以来の特別な時だったことがわかります。これに続く24章における前兆預言が、ユダヤの崩壊に関わるものであると考えるのは極めて自然ではないでしょうか。
「それだけであったら、現代の教会には不要な忠告」ということばは、1世紀に起きた劇的な霊的領域の大転換に関する知識の欠落を示している。あまりにも不勉強。以下の記事にあるように、「歴史的背景をふまえた上で、すべての時代に生きる人々への教訓としてしるされたもの」と表現すべきだ。オフィシャルな出版物として世に出すのであれば、なおさらのことそのように表現すべきだと思う。教会の檀上で私的に自分の私論を述べているのではないのだから。旧約時代において、自分の予言が成就しなかった預言者は偽預言者として処刑された。予言の内容によっては、人の生き死にに関わることがあるから当然と言えば当然の裁き。予言(宣言)するからには覚悟はできているのだろう。
Sproul師もあまりにも酷い解釈の仕方に憤りを隠せない。
弟子たちがイエスにまだはっきりしない点、「これらの事々は何時起きるのだろうか、これらすべての事々の到来のしるしは何ですか」を尋ねると、イエスは、これらすべての事々が成就するまで、この世代は過ぎ去らないだろうと言いながら、1世代の時間枠について言及した。そして、この預言のために、バートランドラッセルのような人々や現代の聖書批評家たちは「ほれ見ろ、聖書は信用できないし、イエスも信用できない。その世代の範囲内でこれらすべての事々は起こると預言したではないか」と言っている。この難問を取り扱うためにさまざまな試みが為されてきたと先週申し上げた。「世代」ということばの意味を再定義するようなものがあるが、正直に言って、そのような苦痛を伴う方法には我慢ができない。
◇◇
(Q)<この箇所は多くの学者によって、紀元七〇年の神殿破壊の予告であったと考えられている。しかし、それだけであったら、現代の教会には不要な忠告となる。むしろ、イエスは、それをも含めて終末の前兆への注意を述べ、すべてのキリスト者に終末に備えることを教えておられる、とみなすべきであろう。>(M氏)
(A)M氏の見解ですが、紀元七〇年の神殿破壊の予告だけであったら現代人にとって不要な忠告となる、というのはどうしてもいただけない解釈です。なぜならば、旧約聖書には、紀元前500年頃のエドム人やアッシリア人だけに向けて書かれた宣告があります。これらは、まったく現代人にとって無益なものとなるのでしょうか。そうではありません。聖書解釈の原則は、「聖書は第一義的に当時の人々に向けて書かれているのだが、それは、歴史的背景をふまえた上で、すべての時代に生きる人々への教訓としてしるされたものである。」でしょう。増田氏の解釈によれば、「エドム人に対する宣告というだけでは無益なので、それは現代についての預言も含んでいるに違いない」と考えなければなりません。そのような解釈を「読み込み」と言うのではないでしょうか。聖書は、私的解釈を施してはならないとペテロは警告したのではないでしょうか。紀元前500年のエドム人への宣告は、紀元前500年のエドム人への宣告以外の何物でもありません。それはもっぱら彼らにあてて書かれたのです。しかし、それを我々が読むときに、普遍的な教訓をそこから読みとれるのです。
神殿崩壊の前兆は、神殿崩壊の前兆以外の何ものでもないのです。それを現代人の都合に合わせるために、終末の前兆にすることは許されません。あくまでも、聖書は聖書に語らせるべきなのです。もし釈義的に終末預言と考えることも可能であるというならば、話は別です。しかし、ルカを読むと、「あなたがたが見ているこれらのものについて言う」と前置きがしてあって、前兆が語られるのです。これは、やはり、当時の神殿についての預言であって、終末預言と考えることはとうてい不可能です。
<終末前に全世界へ福音が宣べ伝えられるという一四説も(中略)終末が遅れるなら、それは宣教の任に当たる教会の怠慢が一因であることを示す>。(H氏)
これは、すでに掲示したように、神殿崩壊の前に全世界に福音は伝えられたのです。その全世界が、文字どおりの全世界かどうかは判りません。パウロやペテロやその他の人々が南米の奥地にまで福音を運んだかどうかはわかりません。おそらくなかったでしょう。しかし、聖書自体が「福音は第1世紀に全世界に伝えられた。」(コロサイ1・1・6、ローマ1・8など)と宣言しているのです。恐らく全世界とはパウロの時代の人々が考えていた意味での「全世界」であって、今日の地理的知識から見た「全世界」ではないでしょう。とにかく、聖書自体が語っていることを見ると、この前兆が当時すでに成就していたことが判るのです。
また、イエスが述べた「全世界」は、(当時の地理的知識の狭さゆえに)我々の全世界とは違うので、我々が考える「全世界」という概念を聖書解釈の上で利用すべきではなく、むしろ、コロサイやローマにおいてパウロが語った「全世界」の方がイエスの「全世界」に近いと考えるべきではないでしょうか。
注)当時の「全世界」の定義(考え方)については、すでにSproul師のメッセージの中で確認した。
使徒パウロがローマ人に手紙を書き送った時、福音はすでに今や全世界を通して諸外国へと伝えられたと、彼は喜びに満ちていた。私たちは言う、「ちょっと待てよ」と。当時、福音はアルゼンチンに届いていなかったじゃないか。福音は中国に届いていなかったじゃないか。福音はオーストラリアに届いていなかったじゃないか。福音はアメリカインディアンやエスキモー、全世界に届いていなかったじゃないか。パウロは地中海の世界、当時の世界、つまり、あの1世紀において、福音が宣べ伝えられていた世界について言ったのだ。
<エルサレム滅亡の際の苦難と世の終わりの苦難が15-22節で二重写しに語られているように思われる>(U氏)
このような「預言の二重性」説は今日流行していますが、世界の終末の苦難と考えることができないのは、掲示したように、「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(34)という結びの言葉があるからです。掲示しましたように、この時代とは「この世代」という意味であり、つまり、イエスが生きていたのと同時代の人々のことを指しているのです。とすれば、15ー22節も、イエスの同時代において起こると考えなければならないのです。
イエスは、「義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。まことにあながたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。」(マタイ23・35)と述べて、責任を特に、「この時代の上に問う」と述べておられます。つまり、イエスの時代のユダヤは「主の報復の日」を迎えようとしていたのです。それは、多くの預言者をつかわし、最後には御子までもつかわしたのに、ユダヤはそれを拒否したからです。神の寛容も限度が来たと、イエスは述べられました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」(マタイ23・37ー8)これを見てもわかるように、当時のユダヤは、歴史始まって以来の特別な時だったことがわかります。これに続く24章における前兆預言が、ユダヤの崩壊に関わるものであると考えるのは極めて自然ではないでしょうか。