みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#7 終末預言 by R.C. Sproul

2021年12月01日 | 終末預言 
The Signs of the Times (Mark 13:9–20) — A Sermon by R.C. Sproul

配信第7回:4分23秒から9分33秒まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ続き)

弟子たちがイエスにまだはっきりしない点、「これらの事々は何時起きるのだろうか、これらすべての事々の到来のしるしは何ですか」を尋ねると、イエスは、これらすべての事々が成就するまで、この世代は過ぎ去らないだろうと言いながら、1世代の時間枠について言及した。

そして、この預言のために、バートランドラッセルのような人々や現代の聖書批評家たちは「ほれ見ろ、聖書は信用できないし、イエスも信用できない。その世代の範囲内でこれらすべての事々は起こると預言したではないか」と言っている。

この難問を取り扱うためにさまざまな試みが為されてきたと、先週申し上げた。

「世代」ということばの意味を再定義するようなものがあるが、正直に言って、そのような痛々しい解釈には到底我慢ができない。

また、次のような試みもある。この予言的預言において私たちが見ているのは、旧約聖書において見られるものであり、短期間の適応である預言が後の歴史において完全なる適応として成就する可能性を秘めているという解釈だ。

恐らく、これがここで想定されていることなのだろう。

そして、(マタイ13章ではなく)マルコ13章、マタイ24章、そしてルカ21章を解釈しようとするもうひとつの試みがある。オリーブ山の説教は、イエスが話していることが時の終わりにおける最後の来臨ではなく、紀元70年に完了したユダヤ時代の終わりにおける裁きの来臨であるとする説だ。

そのような見解は、現代における批判がますます強烈になるにつれて、ますますポピュラーになってきた説のひとつ。

今朝私がやりたいことは、1世紀を適応するという見地からこのテキストを理解しうる方法をあなたがたに示すということ。

先週、戦争や戦争のうわさ、地震、飢饉、そして悲しみの初めということに関して、簡単にそのことをやってみた。

先ほど読んだように、第9節に「気をつけなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡すだろう。会堂でむち打たれるだろう。私のゆえに、証言するために、支配者や王たちの前に連れて来られるだろう。そして、初めに福音はすべての国民に宣べ伝えられなければならない。しかし、彼らはあなたがたを捕え引き渡すが、心配するな。その時あなたがたに与えられることは何でも、それを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です」とある。

さて、預言のこの箇所は、「使徒の働き」の略図のように見えないだろうか。

「使徒の働き」において、使徒たちが1世紀に福音を拡げていくのと同時に、迫害に晒される度重なる経験を目の当たりにする。

まず初めに、ユダヤ人コミュニティによって加えられた使徒たちに対する大変深刻な迫害と、それに続くローマ軍による迫害。

パウロの例を見てみよう。伝道の旅において、アジアの主要都市すべての至る所で会堂へと入り込んで、時には体を投げ飛ばされ、時には棒で打たれ、時には石で打たれ、死に瀕した。

鎖でつながれ、アグリッパの前に立つパウロが、その王に自身の証言を告げるのを私たちは見る。

アグリッパは言った、「パウロよ、私を説得してほぼクリスチャンにしようとしている。」

そして、パウロは言った、「ほぼクリスチャンになったではなく、私がそうであるようにともにそうなったのです。この鎖を除いて。」

使徒の働きに書いてあるのは、初期の教会が神と聖霊の臨在とパワーを自覚し、神と聖霊が適切な時に言うべきことを教え、彼らを支配者、王たち、そして議会の手から解放してくれるということを知っていたということ。

知っていると思うが、これらの警告のことばは基本的に私たちに発せられたものではなく、初代教会の指導者たちに発せられた。

そして、12使徒の中で、もちろん首をつったユダを除いて、初代教会において殉教しなかった唯一の弟子はヨハネだった。残りは皆、信仰の証言ゆえに処刑された。