みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#14 終末預言 by R.C. Sproul

2021年12月13日 | 終末預言 
Christ Coming in Glory (Mark 13:24–36) — A Sermon by R.C. Sproul

配信第14回:6分11秒から10分02秒まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ開始)

イエスが与えたこれらすべての事々は、事実、主がこの預言を言及した時点から紀元70年における神殿崩壊とエルサレム崩壊に関する預言の部分的成就の狭間で起こった。

つまり、40年の間に、つまり、イエスが預言したほとんどすべての事々がイエスが起きるであろうといった時間枠内で実際に起きた。

しかし、そのような経過の中でまばゆいほどに目につくのは、栄光の中のご自身の来臨が欠落していることだった。

そんなわけで、初期の教会は自分たちの神学に合わせる必要と、オリーブ山の説教とその最終的成就との間に数千年もの時間的隔たりを容認するような期待に合わせる必要もあったと聖書研究者は指摘してきた。

この難題を遠回しに説明しようとするいくつかの試みがあると説明した。

これらの事々すべてがその世代の内に起こるとイエスが言ったことについて、これらすべての事々から、力と栄光のイエスの来臨を除外する必要があるとするのが第1番目。

この解釈の問題点は、卓越した新約聖書研究者や正統神学者たちが指摘しているように、聖書を解釈する上で捻じ曲げられたアプローチ法を要求しているということだ。

何故なら、マルコ13章において、これらすべての事々というフレーズの中に、力と栄光のご自身の再来という預言が含まれていることは明らか。

され、この難問を遠回しに説明しようとする別の試みは、2つの異なる方法を駆使しようとする。

ひとつは、イエスによって語られていることばを、文字通り受け取る場合と比ゆ的に受け取る場合に分けることによる解釈だ。

さて、その違いには少しばかり難しい面がある。

私は以前にこの点を指摘したことがある。

「あなたは聖書を文字通り理解していますか」と、誰かに聞かれた時の私の反応はいつも同じ。

「はい、文字通り受け取っています」と、私は決して言わない。

また、「あなたは聖書を文字通り理解していますか」と、誰かに聞かれた時、「いいえ、決して文字通りには理解していません」と、私は決して言わない。

私の標準的な反応は、「はい、文字通り理解しています」ではなく、「もちろん、そうすべき場合があり、そうすべきでない場合がある。」

聖書は、字義通りのドキュメント。

つまり、文字で書かれたドキュメント。

字義解釈の規則は、書かれたドキュメントとして、それに適用する。

もちろん、16世紀、「sensus literalis」(聖書の字義的意味)と彼が呼ぶものを追及することによる聖書解釈法をルターは唱えた。

その意味とは、すなわち、それが書かれたそのままの意味ということ。

つまり、詩は詩として解釈する。

隠喩は隠喩であり、直喩は直喩。

歴史的物語は歴史的物語として解釈する。

これが、聖書を文字通り受け取るということ。

しかしながら、今日の戯言によると、字義的解釈が多くの人たちに意味を持つものとなるのは、それを比喩的に解釈するのでも、隠喩的に解釈するのでもないということらしい。

すべてのことは、ある意味、未完成のまま、ごつごつしたまま、文字通り受け取るべきだという主張だ。

マルコ13章を見ると、字義的部分と比喩的部分の混合であることが分かる。