みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#398 神の法第二戒

2019年08月31日 | 神の法
第2戒
律法と平等

p99~
Law and Equality
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

新約時代、真の教会、真の神の御国には「一つの主、一つの信仰、一つのバプテスマ」(エペソ4:5)の原則が適用された。

地方教会の会員となることがあっても、それは、全クリスチャンから成る普遍的な神の国の一員であるという事実の上にはじめて成り立つものであった。

しかし、究極的・本質的な統一があるからといって、地方的・民族的な区別を取り去ってもよいということにはならない。

統一(unity)は、画一(uniformity)と混同されてはならない。

平等主義は、現代の政治的宗教的概念であり、聖書の世界には存在しない。

聖書律法の中に平等主義を見いだすことは不可能。

平等主義はヒューマニズムと新種の偶像崇拝(人間崇拝)の産物。

人間の想像力が作り出した新しい偶像。

今日、平等主義は、宗教、政治、経済の分野において、物事の価値を決定するための判断基準として機能している。

聖書信仰から平等主義を導き出そうとする試みは、聖書に対する攻撃であり、不誠実の罪。

申命記23章1~8節には、集会から除外すべき人々の興味深いリストが記されている。

私生児は十代目まで集会のメンバーにはなれない。

去勢者は、それが事故によるものであれ、人間の意思によるものであれ、排除される。

去勢者には子孫がないゆえに、彼らの関心は未来にはない。

それゆえ、市民権は与えられない。

アモン人やモアブ人など倫理性に問題のある民族が市民となることができない理由は、契約を責任ある人々の手中に置くことにある。

エドム人やエジプト人を制限したのも同じ理由による。

古来、一般に去勢者は官吏として重用された。

ビザンチン帝国において、彼らは行政事務を司った。

去勢者は未来に対して利害や関心を持たないがゆえに、彼らには、目先の事務処理に集中し、それを忠実にこなす職務が与えられた。

去勢者は、一種の実存主義者であり、過去や未来から切り離され、現在に繋がれていたので、家庭を持つ人々よりも重用された。

植民地時代のニューイングランドにおいて、教会や国家は契約思想に基づいて運営された。

住民はみな教会に通っていたが、教会運営に(それゆえ政治にも)携われたのはその中の限られた人々だけであった。

教会の会員であることと市民であることは同値であった。

教会運営の原則は、責任を負うことができる人々にしか責務は与えられないというものであった。

一つの信仰、一つの法、一つの義の基準という原則は、民主主義ではない。

民主主義という名の異端は、これまで教会や国家に大きな混乱をもたらし、社会を無政府状態に追い込んできた。