第2戒
戦争としての法
p90~
Law as Warfare
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
聖書において、男性の同性愛者は「犬」という侮蔑的な言葉で呼ばれている。
この律法の主眼は、遊女や男娼の「宗教的な動機」が神によって軽蔑されているということ。
彼らの稼ぎを神のもとに持ってきても、神は受け取ることはない。
受け入れが拒否されるのは、罪深い行為から得られた利益だから。
われわれは、このような捧げ物を教会だけの問題として考える。
しかし、「誓願」という言葉は、宗教的な判例を提示する。
誓願は、特別な聖潔を前提とする。
しかし、誓願や誓いが異質な法秩序を前提としている場合、その誓いは神に受け入れられず、忌み嫌うべきものとなる。
そのような誓願をする人は神の御前に立つことはできない。
誓約をした遊女やホモセクシュアルは、法の前において単なる罪人ではなく、アウトロー(=法の外にいる人々)とみなされる。
法の下での罪人と法の敵とは、まったく異質な概念。
法の敵が納めた税金や捧げ物は何一つ受け入れられなかった。
罪人には供え物を捧げる義務があるが、法の外にいる人々には供え物を捧げる資格がない。
第1列王記3章16~28節の2人の遊女は、ソロモンの法廷に上訴することが許された。
第1列王記3:16~28
そのころ、ふたりの遊女が王のところに来て、その前に立った。ひとりの女が言った。「わが君。私とこの女とは同じ家に住んでおります。私はこの女といっしょに家にいるとき子どもを産みました。ところが、私が子どもを産んで三日たつと、この女も子どもを産みました。家には私たちのほか、だれもいっしょにいた者はなく、家にはただ私たちふたりだけでした。ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。この女は夜中に起きて、はしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って、自分のふところに抱いて寝かせ、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう、子どもは死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、まあ、その子は私が産んだ子ではないのです。すると、もうひとりの女が言った。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」先の女は言った。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」こうして、女たちは王の前で言い合った。そこで王は言った。「ひとりは『生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子だ。』と言い、また、もうひとりは『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ。』と言う」そして、王は、「剣をここに持って来なさい。」と命じた。剣が王の前に持って来られると、王は言った。「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」すると、生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、もうひとりの女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」と言った。そこで王は宣告を下して言った。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。
この例からも明らかなように、アウトローも法の下で公正に取り扱われる権利があった。
それは、すべての人に同一の法が適用されたため。
アウトローは、公正に取り扱われたが公民権は与えられなかった。
戦争としての法
p90~
Law as Warfare
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
聖書において、男性の同性愛者は「犬」という侮蔑的な言葉で呼ばれている。
この律法の主眼は、遊女や男娼の「宗教的な動機」が神によって軽蔑されているということ。
彼らの稼ぎを神のもとに持ってきても、神は受け取ることはない。
受け入れが拒否されるのは、罪深い行為から得られた利益だから。
われわれは、このような捧げ物を教会だけの問題として考える。
しかし、「誓願」という言葉は、宗教的な判例を提示する。
誓願は、特別な聖潔を前提とする。
しかし、誓願や誓いが異質な法秩序を前提としている場合、その誓いは神に受け入れられず、忌み嫌うべきものとなる。
そのような誓願をする人は神の御前に立つことはできない。
誓約をした遊女やホモセクシュアルは、法の前において単なる罪人ではなく、アウトロー(=法の外にいる人々)とみなされる。
法の下での罪人と法の敵とは、まったく異質な概念。
法の敵が納めた税金や捧げ物は何一つ受け入れられなかった。
罪人には供え物を捧げる義務があるが、法の外にいる人々には供え物を捧げる資格がない。
第1列王記3章16~28節の2人の遊女は、ソロモンの法廷に上訴することが許された。
第1列王記3:16~28
そのころ、ふたりの遊女が王のところに来て、その前に立った。ひとりの女が言った。「わが君。私とこの女とは同じ家に住んでおります。私はこの女といっしょに家にいるとき子どもを産みました。ところが、私が子どもを産んで三日たつと、この女も子どもを産みました。家には私たちのほか、だれもいっしょにいた者はなく、家にはただ私たちふたりだけでした。ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。この女は夜中に起きて、はしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って、自分のふところに抱いて寝かせ、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう、子どもは死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、まあ、その子は私が産んだ子ではないのです。すると、もうひとりの女が言った。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」先の女は言った。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」こうして、女たちは王の前で言い合った。そこで王は言った。「ひとりは『生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子だ。』と言い、また、もうひとりは『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ。』と言う」そして、王は、「剣をここに持って来なさい。」と命じた。剣が王の前に持って来られると、王は言った。「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」すると、生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、もうひとりの女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」と言った。そこで王は宣告を下して言った。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。
この例からも明らかなように、アウトローも法の下で公正に取り扱われる権利があった。
それは、すべての人に同一の法が適用されたため。
アウトローは、公正に取り扱われたが公民権は与えられなかった。