みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#393 神の法第二戒

2019年08月26日 | 神の法
第2戒
律法と平等

p95~
Law and Equality
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

死は争いの結末。

偽りの平和を求める社会は死を求めている。

争いは有益。

社会は争うことなしには成り立たない。

しかし、争いを制御できない社会は成り立たないだけではなく、さらに悪い結果を生み出す。

性(交渉)を例に取ることにしよう。

性(交渉)を規則によって管理しなければ社会は成り立たない。

どの程度性に対して制限を設けるかは、社会によって様々である。

性を完全に制限すると社会は消滅してしまう。

逆に、制限を撤廃しても社会は崩壊してしまう。

同様に、争いを完全に抑制すると、完全に自由にした場合と同様に、社会は無政府状態に陥る。

今日、われわれ西洋人は、争いの意味を正しく理解していない。

われわれは争うことを恐れている。

われわれの回りにある離婚や暴動や戦争に対して、われわれは争うことを拒否している。

本来ならば争いを取り扱うはずの人間の諸制度が、それらを処理できなくなっている。

また、それらを処理できる代替制度も持ち合わせていない。

争いの解決には二つの解決法がある。

規則と戦闘、すなわち法律と戦争。

これらは、本来自らが守り、強化すべきはずのものを逆に破壊している。

この見解はヒューマニズム的であり、相対主義的。

社会の内部で発生する紛争は、無政府状態を生み出す。

万人にとって自分が決定した法だけが法であり、人間の意思の他にいかなる絶対的な意思も存在しないとすれば、全体主義は避けられない。

しかし、全体主義を避けようとすると、完全な闘争状態と完全な無政府状態に陥るほかはない。

相対主義社会は争いの問題を解決できない。

いくら正しく秩序ある方法で処理したとしても、相対主義社会は争いを正しく処理できない。

もし、あらゆる見解、宗教、哲学を合法化し、万人を市民と認めるならば、あらゆる法律・文化を認めなければならない。

その場合、結果は二つしかない。

抑圧的で全体主義的な国家が万人を支配するか、万人が自由奔放に振る舞う無政府状態に陥るか。

個人主義と集団主義はいずれも自由主義の産物である。