流れに任せて聖研を進めているが、人類史の終焉、主の再臨、新天新地、新エルサレム、などeschatologyに関する学びへと自然に移りつつある。
救いの達成、すなわち聖化の過程の歩みの延長線上に終末論はあるのであって、それだけを取り出して議論してもあまり有用とは言えない。
流れに逆らわずに、これまでの学びを継続しながら、終末論に関しても理解を深めていきたいと思う。
現在読み進めたいと思っている本は
The days of vengeance
David Chilton
これまた圧巻だが面白そう。
すでに、シリーズ「携挙」の中で触れたが、パル―シア(凱旋)というギリシャ語原語の意味から、携挙という教理は空想話、偽教理の可能性が高い(と思われる)。
このことを踏まえて、あらたに「再臨」というテーマを設けることにした。
最初のメッセージはこれ。
☞ How will we know when Jesus is coming back? | N.T. Wright at UT Austin
初めから3分21秒まで。
◇◇
福音書の中で、最も不思議な特徴のひとつは、主の再臨ではないかと思います。
ダマスカスの途上で、イエスはパウロに現れましたが、このようなことが次にいつ起こるのかについて考えてみたいと思います。
あるいはまた、初代教会において、ある意味で、これは起きていたのではないかと思います。
さて、2000年の時が過ぎて、私たちはいまだにそうではないと思いますが、これらの聖句をどのように解釈しますか。
まさに最後に、イエスがそのようなことを語っています。
イエスが弟子たちのところに現れた時のことは使徒伝に記されています。
天使は、「主は、あなたがたが去っていくところを目撃したのと同じように、再び戻ってくるであろう」と告げました。
ここに大きな問題があります。
他の地域よりも、アメリカにおいて大きくて不気味な問題です。
新約聖書において、携挙という考え方を有するアメリカのディスペンセーション主義は、イエスの再臨という考え方を、反対の方向へと変えてしまいました。
再臨というのは、イエスが戻って来て、ある人たちをすくい上げて、ご自身とともに彼らを天へと連れ去るということではありません。
違います。
新約聖書のイエスの再臨の記事において、イエスは(地上に)戻って来て、支配し、世界を造り変えて、新たなものにします。
すなわち、これが新約聖書全体の一部であり、新天新地の内容であります。
イエスの来臨についてではなくて、イエスの現われについて書いてある聖句があります。
コロサイ3章、第1ヨハネ3章です。
コロサイ3:4
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
第1ヨハネ3:2
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
来臨ではなく、現われるというのはどういう意味でしょうか。
暗黙の宇宙論があるために、問題が起きるのです。
私たちには暗黙の宇宙論があり、空の何処か遥か彼方に天があると思っています。
空の何処か遠くに天があると考えています。
そして、その遥か下方に地球があると考えています。
そこで、主は、長い旅行を経て、何処からか宇宙人のようにやって来ると考えています。
多くの人たちから手紙をもらいましたが、彼らは全く文字通りに理解していて、天とはこの宇宙の中の空間であると考えています。
聖書は天ということばをそのように用いてはいません。
天ということばは複数の意味があり、この場合の天とは神の空間という意味であり、神の空間とは、私たちの空間である地球と最終的に合体する空間のことを言います。
その瞬間、まさに現実の只中において、巨大なカーテンが引き下げられるかのように、であります。
ある時点、ある場所において、神は遠くにはおられず、またイエスも遠くにはおられないのだが、今この時には見ることができない。
しかし、ある日、カーテンが後ろへと引かれ、まるで誰かがカーテンを引っぱっているかのように、それはやって来ます、そして現われます。
突然、すべてのことがカーテンの後ろで進行しているのが分かります。
そのカーテンが私たちの現実と合体するのです。
イエスがやって来るという考えと全く同じ映像として捉えることができます。
ここで解釈上難問があります。
福音書の記述から、長い時間経過の後にイエスが来臨すると予言する習慣がありますが、これは事実ではありません。
例えば、マルコ伝13章に書かれているのは、エルサレム陥落の預言です。