天皇の先祖はエタ、である可能性がある。
まあ、エタでなくても、百姓の子かもしれないし、足軽の子かもしれないし、山賊の子かもしれない。
それは、わからない。
奈良時代は、特に、天皇の権力闘争が激しかった。
平安時代の藤原道長にしたって、そうである。
天皇は、男系継承だから、天皇の妻、皇后、に、男の子が生まれてくるのを、切に、望んだ。
それは、今の悠仁親王にしたって、そうである。
そうすれば、天皇の権力を握れるからである。
昔は、女が妊娠した時は、生まれた時に、初めて、赤ん坊の性別が、男か女か、わかった。
産むまでは、わからなかった。
摂関政治としてしては、権力を握るためには、男が生まれてくることを、切に望んだ。
そこで。女の子、が、産まれた場合、急いで、使者を、エタに行かせ、エタの、男の赤ん坊、を、もらってきて、天皇が産んだ女の子と、交換させた、ということは、十分にあり得ることだ。
皇后が、天皇以外の、男と寝て、妊娠した可能性だってある。
むしろ、125代、男系が続いてきた、ということの方が、はるかに不自然だ。
昔は、DNA鑑定なんて、なかったし、今は、あるけど、怖れ多くも、天皇のDNA鑑定、をするなんて、不謹慎なので、宮内庁はしない。
☆
法律の原則は、「推定無罪」、である。
つまり、「確かな証拠がなければ、決めつけてはいけない」、ということである。
学問でも、そうである。
そして、それは、極めて当たり前のことである。
だから、天皇の血統が、正しく伝承されてきた、なんて、全く言えないのである。
☆
竹田恒泰氏は、天皇の男系継承は、性染色体のY遺伝子、ということの重要性を、さかんに言っている。
しかし、天皇に、女の子が生まれた場合、赤の他人の、男の赤ん坊とすり替えた、可能性が否定できない以上、そして、DNA鑑定、をしない以上、そんなこと、血統の間違いない証明には、何の役にも立たないのである。
☆
この人間の心理。
たとえば、正月などで、神社、や、寺、で、人々は、手を合わせ、祈る。
荘厳な、神社、や、寺、の建て物、に、人々は、畏怖の念を感じてしまう。
しかし、何が祀られているか、ということは、人々は、知らない。
しかし、祀られている、本尊は、大したことがないことの方が多い。
人々もそれを、知りたいとは、思わないのだ。
知らないと、その神秘性から、想像力が高まってしまって、きっと、ご本尊は素晴らしいものだ、と、思ってしまうのである。
だから、知らない、ということが、信仰心を高めるのである。
実質は、どうでもいいのである。
そういう軽率さ、が人間にはある。
軽率、という言葉は、必ずしも適切ではない。
人間の、信仰心、とは、そういうものである。
まあ、エタでなくても、百姓の子かもしれないし、足軽の子かもしれないし、山賊の子かもしれない。
それは、わからない。
奈良時代は、特に、天皇の権力闘争が激しかった。
平安時代の藤原道長にしたって、そうである。
天皇は、男系継承だから、天皇の妻、皇后、に、男の子が生まれてくるのを、切に、望んだ。
それは、今の悠仁親王にしたって、そうである。
そうすれば、天皇の権力を握れるからである。
昔は、女が妊娠した時は、生まれた時に、初めて、赤ん坊の性別が、男か女か、わかった。
産むまでは、わからなかった。
摂関政治としてしては、権力を握るためには、男が生まれてくることを、切に望んだ。
そこで。女の子、が、産まれた場合、急いで、使者を、エタに行かせ、エタの、男の赤ん坊、を、もらってきて、天皇が産んだ女の子と、交換させた、ということは、十分にあり得ることだ。
皇后が、天皇以外の、男と寝て、妊娠した可能性だってある。
むしろ、125代、男系が続いてきた、ということの方が、はるかに不自然だ。
昔は、DNA鑑定なんて、なかったし、今は、あるけど、怖れ多くも、天皇のDNA鑑定、をするなんて、不謹慎なので、宮内庁はしない。
☆
法律の原則は、「推定無罪」、である。
つまり、「確かな証拠がなければ、決めつけてはいけない」、ということである。
学問でも、そうである。
そして、それは、極めて当たり前のことである。
だから、天皇の血統が、正しく伝承されてきた、なんて、全く言えないのである。
☆
竹田恒泰氏は、天皇の男系継承は、性染色体のY遺伝子、ということの重要性を、さかんに言っている。
しかし、天皇に、女の子が生まれた場合、赤の他人の、男の赤ん坊とすり替えた、可能性が否定できない以上、そして、DNA鑑定、をしない以上、そんなこと、血統の間違いない証明には、何の役にも立たないのである。
☆
この人間の心理。
たとえば、正月などで、神社、や、寺、で、人々は、手を合わせ、祈る。
荘厳な、神社、や、寺、の建て物、に、人々は、畏怖の念を感じてしまう。
しかし、何が祀られているか、ということは、人々は、知らない。
しかし、祀られている、本尊は、大したことがないことの方が多い。
人々もそれを、知りたいとは、思わないのだ。
知らないと、その神秘性から、想像力が高まってしまって、きっと、ご本尊は素晴らしいものだ、と、思ってしまうのである。
だから、知らない、ということが、信仰心を高めるのである。
実質は、どうでもいいのである。
そういう軽率さ、が人間にはある。
軽率、という言葉は、必ずしも適切ではない。
人間の、信仰心、とは、そういうものである。