イチローははたして優れた指導者か?
ということに僕は疑問をもっている。
イチロー自身は優れた記録を出した選手だ。
しかし彼は高校野球の指導をしたいと言って、どっかの高校野球部で教えている。
確かにイチローは権威を振りかざして威張る性格ではない。
しかし野球部の生徒にとっては、イチローに、「こうした方がいいよ」と優しくアドバイスされたら、それを無視することは極めて出来にくい。
パワハラよりオーソリティーの方が人を従えさせてしまう効果が大きい。
イチロー自身に個々人を見る目があるのか、どうか、それはわからない。
やはり自分の経験をアドバイスしてしまう傾向があるように思う。
藤川球児は優れた指導者だと僕は思っている。
彼は個々人を見る目があるからだ。
「この子には何もいわなくてもいい、という選手もいる」という彼の言葉に彼の指導者としての才能を感じた。
「何も言わなくてもいい」というのも指導の選択枝の一つなのだ。
彼はそれがわかっている。
スポーツは基本的に反復練習による量質転化によって、やる気をもって練習していれば、上手くなっていくものなのである。
コーチはバカが多いから上達途中の人にも口を出し過ぎる。
やる気のある選手が熱意をもって練習していれば、上達途中の人には何も言わない方がいいのである。
やがて、自然と上手くなっていく。
医学においても、
「何もしない。何の薬も出さない」というのも治療の選択肢の一つであるのと同じである。
そしてイチローのコーチによって優勝した場合、それはイチローの指導のおかげなのか、どうかはわからない。
スポーツは世間の人にとっては、結果がすべてだから、イチローが指導して優勝したら、イチローの指導のおかげだ、と短絡的に決めつけてしまう。
しかしイチローの指導がなくても勝てたかもしれないし、イチローの指導がなければもっと強くなっていたかもしれない。
強くなったのとイチローの指導との因果関係を証明することは出来ない。
しかし。
少なくとも僕には、サルトルの「実存は本質に先立つ」は当てはまらない。
僕は「本質=生きる目的」を求めて生きてきた例外的人間である。
ということに僕は疑問をもっている。
イチロー自身は優れた記録を出した選手だ。
しかし彼は高校野球の指導をしたいと言って、どっかの高校野球部で教えている。
確かにイチローは権威を振りかざして威張る性格ではない。
しかし野球部の生徒にとっては、イチローに、「こうした方がいいよ」と優しくアドバイスされたら、それを無視することは極めて出来にくい。
パワハラよりオーソリティーの方が人を従えさせてしまう効果が大きい。
イチロー自身に個々人を見る目があるのか、どうか、それはわからない。
やはり自分の経験をアドバイスしてしまう傾向があるように思う。
藤川球児は優れた指導者だと僕は思っている。
彼は個々人を見る目があるからだ。
「この子には何もいわなくてもいい、という選手もいる」という彼の言葉に彼の指導者としての才能を感じた。
「何も言わなくてもいい」というのも指導の選択枝の一つなのだ。
彼はそれがわかっている。
スポーツは基本的に反復練習による量質転化によって、やる気をもって練習していれば、上手くなっていくものなのである。
コーチはバカが多いから上達途中の人にも口を出し過ぎる。
やる気のある選手が熱意をもって練習していれば、上達途中の人には何も言わない方がいいのである。
やがて、自然と上手くなっていく。
医学においても、
「何もしない。何の薬も出さない」というのも治療の選択肢の一つであるのと同じである。
そしてイチローのコーチによって優勝した場合、それはイチローの指導のおかげなのか、どうかはわからない。
スポーツは世間の人にとっては、結果がすべてだから、イチローが指導して優勝したら、イチローの指導のおかげだ、と短絡的に決めつけてしまう。
しかしイチローの指導がなくても勝てたかもしれないし、イチローの指導がなければもっと強くなっていたかもしれない。
強くなったのとイチローの指導との因果関係を証明することは出来ない。
しかし。
少なくとも僕には、サルトルの「実存は本質に先立つ」は当てはまらない。
僕は「本質=生きる目的」を求めて生きてきた例外的人間である。