小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

精神科医の悪事

2017-08-07 05:06:59 | 医学・病気
悪の恩返し(精神科医の悪事)

「101人の不正を認定、精神保健指定医、大学教授も対象。」
「厚生労働省は10月26日、医道審議会医師分科会精神保健指定医資格審査部会の答申を受けて、精神保健指定医89人の指定を取り消した。内訳は、申請者49人、指導医40人。指定時の所属医療機関は26機関、12都道府県。取消前に辞退などをした8人と、新規に指定申請をしていた4人についても不正があり、不正レポートへの関与が確認されたのは計101人に上る。」



<聖マリアンナ医大病院>精神保健指定医20人資格取り消し。その2。(2015-04-19)が、このブログの人気記事の一つになってしまった。
御園生篤志、は、不正をして、精神保健指定医の資格をとった。
しかし、御園生篤志は、「不正で指定医になった医師」ではなく、「不正を指導した医師」、として、さらされた。
しかし、これには、ちゃんと必然性があるのである。
精神病院勤務の精神科医は、指定医も、非指定医も、実力的には、全く差はないのである。
精神科は、二年もやれば、もう、経験10年の、ベテラン精神科医と同じ能力が身につくのである。
なので、非指定医は、指定医の資格を持っていない、だけであって、実力的には両者に区別は無く、非指定医は、誰にも頼らず、患者の主治医として一人で、患者を入院から退院まで、診療しているのである。
後輩が指定医になるために、後輩が、自分で診療していない、患者のケースレポートや捏造レポートや、たらいまわしのコピーのケースレポートに、サインする、ということは、不正行為ということは、精神科医なら誰でも知っている。
もし、それがバレたら、自分も罪に問われるということも、精神科医は知っている。
なのに、なぜ、不正レポートにサインするのか?
それは、自分も、不正で、指定医の資格を取得したから、後ろめたさがあり、後輩にも、不正を認めてやることで、自分の罪を帳消しにしたい、という心理が働くからである。
御園生篤志など、そのいい例である。
だから、今回、指導を怠った、として、さらされた精神科医は、自分も不正をして、指定医になった、可能性が十分にある。

一般的な例で言えば、他人が、万引き、するのを見て、注意しない人間は、万引きを悪いことだと思っていないのだから、自分も万引きをする(した)可能性が、十分にある。ということである。

不正をしない主義(それが人間としてあたりまえ)の、精神科医は、悪事の手助けなんかしないし、自分にリスクのあることなんか、しない。

だから、今回、指導を怠った、として、さらされた精神科医は、自分も不正をして、指定医になった、可能性が十分にある。

それ以外に理由がない。

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パワハラは禁止すべきだけど・・・

2017-08-07 03:45:49 | 武道・スポーツ
パワハラは禁止すべきだけど・・・。

パワハラを禁止すべきことに、異論はない。

しかし、少なくとも、僕は、何度も、いじめられて、それによって、強くなった面がある。

あと、一年、我慢すれば・・・、と考えて、僕は、死にたいほどの、いじめ、に耐えてきた。

あるいは、キレて、相手に、決闘を申し込んだりした。

そこらへんを、どう対処するかは、その時の情勢による。

もちろん、いじめは、つらいが、パワハラや、いじめ、も、自分にふりかかってきた、やっかいな問題であり、問題解決能力の機会と、考えてきた面がある。

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乙武洋匡氏を「エロダルマ」と非難するのは、障害者差別発言である

2017-08-07 03:24:40 | Weblog
言葉、言い方、の問題であるが。

乙武洋匡氏は、何人もの女と不倫していた。

そのことは、道徳的に悪い事である。

だから、非難に値する。

だから、乙武洋匡氏を非難するのに、「女体満足」、というように、呼ぶのは、問題ない。

まあ、いついつまでも、非難するのも、良くないと思うが。

しかし。「エロダルマ」、という、言い方は、先天的に手足の無い障害者を、「ダルマ」、と言っているのであり、これは、差別的発言であり、すべきではない。

嫌いな人や、悪い人を、ミソもクソも、一緒くたにして、感情的になるのは、非知性的な行為である。


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日本は、「忖度」、の方が当たり前の社会である

2017-08-07 02:47:27 | 政治
日本は、「忖度」、の方が当たり前の社会である。
日本と、欧米を比べてみる。
日本は、上下関係の社会である。
欧米は、実力主義の社会である。
ヨーロッパの歴史は、ソクラテスから始まって、哲学が途切れることなく、続いてきた、(ある哲学)に対する、発展や、批判の、哲学自体の弁証法の歴史でもある。
一方、日本は、哲学というものが、明治維新で、近代になって、入ってくるまで、なかった。
その代わり、「源氏物語」、や、「枕草子」、や、「古今和歌集」、など、情緒、感情の細やかさ、が、発達した。
昔は、日本は、言葉で、相手と、会話をして、意志を、はっきり伝え合うのではなく、短歌を読み、それによって、自分の意志を、遠回しに相手に伝え、相手も、短歌を返すことによって、自分の意志(返事)を告げていた。←極めて、キザであり、もののあわれ、であり、芸術的である。
そんなことをして、意志を伝える、ということをしていた国は、日本だけである。
それは、日本人が、芸術、感情、が発達した歴史からである。
それが、しきたり、にまで、なってしまった。
ヨーロッパでは、国が接していて、(イギリスも、ヨーロッパに接しているようなものである)戦争の歴史であり、哲学の歴史であり、科学の歴史であり、一つの国で発した、哲学は、他の国にも、すぐに伝わった。
合理的、論理的に物事を考えるから、日本のように、短歌で、意志を伝え合う、なんて、遊ぶ風雅な発想は起こらなかった。
意志を伝えるのにも、「I」、「You」、と、はっきり、していて、これは、英語に限らず、ラテン系の言語、全てで、そうである。
以心伝心、だの、もののあわれ、だの、と、いう感覚や価値観は、発達しなかった。
谷崎潤一郎の、「陰翳礼讃」にしても、そうだが、日本では、はっきり、と、そのものズバリを言わないで、ぼかす、ことに、趣を主張しているのである。
日本人にとっては、謙譲の美徳、が大切であり、言わずに、心が通じ合うことが、日本人の美徳だった。
西洋には、そんな価値観はないから、はっきり物事を言い、自己主張することが、大切であり、喋らないと、その人間は、何も考えていない、人間と見なされた。
だから、欧米人は、積極的に自己主張する。

しかし。日本はいまだに、その感覚(言わぬ美徳)は(良くも悪しくも)残っている。
学校でも番長(←古い)や、大学でも権力のある、威張った人間が、やって来たら、下の人間は、サッと、道を開け、敬礼するのである。
権力者は何も言う必要はない。
下々の人間は、
「そんなこと、言わなくても、わかるだろう」
という社会なのである。
言葉でなく、「場の雰囲気」、「慣例」、「忖度」、で、わかれ、というのが、日本の習慣なのである。
英語に、「忖度」、あたる一つの単語が無い、のが、いい例である。

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