小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

空手のパンチ、キックの原理

2009-12-31 19:48:56 | 武道・スポーツ
昨日、空手の突き、と蹴り、の事を少し書いたが、もう少し書いておこう。空手の突き、や蹴りは、曲げた膝や肘を伸ばす動作なのである。ではなぜ、それが出来ないか。人間は誰しも日常生活に必要な動作は出来る。これを当たり前と思ってしまっていて、そんなのはスポーツでも何でもなく、運動神経など必要のない、誰にだって出来る動作だと思っている人もいる。しかし、それは誤りである。幼児から成長するにつれ、訓練して身につけた動作なのである。例などいくらでもある。日本人にとって箸を使う事は誰にでも出来るが、アメリカ人は箸は使えないから、使えるようになるためには大人になってから練習しなくてはならない。また誰にでも利き手があるから、利き手で、書いたり、箸を使ったりする事は出来るが、利き手でない方の手で字を書くことは極めて困難であり、相当の練習をしなくては出来るようにならない。運動にも難度の高いのと簡単なのがある。これは差別なんて低次元の話ではなく、区別である。車の運転は簡単である。老人でも運転できる。なぜ車の運転が簡単かというと、車というものは人間の日常の動作だけで操作できるように配慮して作られているからである。では空手の突き、や、蹴りの場合。人間は肘や膝を伸ばすという運動は日常生活の中でいくらでもある。むしろ、肘や膝を伸ばさなかったら一日たりとも生活できない。しかしである。日常で肘を伸ばす運動(つまり手を動かす運動)というのはそのほとんどが物を目で見ながら何か物をつかむ、という動作なのである。そのためには、たとえ早くつかむにせよ、目的物に的確に手を伸ばすという調節された手の運動が必要なのである。そのため、目的物にまで手が届かなかったり、目的物を越えて遠くに手が行き過ぎたりしないように、絶えず伸筋と屈筋の両方が働いている動作をしているのである。だから人間はスポーツでも目的物に向かって手を伸ばす、伸筋と屈筋の両方を働かす運動は出来やすいのである。これは足の運動でも同じである。しかし空手の突き、や、蹴りの場合、突く時は伸筋だけを働かせているのであるから、空突き、や、空蹴りでは、反復練習によって、肘や膝を伸ばす時に同時に働いてしまっている屈筋を働かせないようにする、という訓練をしているのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大晦日

2009-12-31 11:04:41 | 大晦日(今年書いた小説)
もう今年も今日が最後である。今年書いた小説は、

「女体盛り温泉旅行」・・・(2月10日)・・93枚

「女教師」・・・・・・・・(2月18日)・・72枚

「精神科クリニック」・・・(4月13日)・・18枚

「真夏の死」・・・・・・・(4月24日)・・21枚

「義母と義妹]・・・・・・・(5月27日)・・130枚

「父となりて」・・・・・・(6月23日)・・93枚

「再婚」・・・・・・・・・(9月4日)・・・108枚

「ビタ・セクシャリス」・・(11月10日)・165枚

「携帯SM小説」・・・・・(11月19日)・54枚

「テニス小説」・・・・・・(11月22日)・50枚

の10作とエッセイ

「自由学園の同窓会」・・・(11月8日)・・75枚

である。

93+72+18+21+130+93+108+165+54+50+75=879枚

まあまあか。来年も頑張るぞ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さっそく挑戦者あらわる

2009-12-31 04:35:18 | 武道・スポーツ
昨日(12月30日)の「カラテ通信教育」を書いたら、さっそく腕に自慢の空手家がやってきた。
敵「このハッタリ野郎。何が狂犬にご注意をだ。てめえに勝負をいどむ。手前なんざ10分であの世行きよ」
と言って敵は、あはは、とせせら笑った。擦り切れた黒帯に金筋が何本も入っている。
私「よくぞいらっしゃいました。まずは紅茶でもいかがですか?」
私は穏やかに聞いた。
敵「わっはははは。やっぱりハッタリだけの腰抜けじゃねえか。これをやるからお前の書斎に大事に飾っておけ」
そう言って敵は私に額縁を渡した。それにはこう書かれてあった。
「東亜病夫」(アジアの弱者)
私「いや。飾るわけにはいきませんな。男の名誉にかけて。では、戦いを始めましょうか」
敵「うわっははは。万が一オレが負けたら、その紙を食べてやるぜ」
私はおもむろに立ち上がった。
私「では、はじめましょうか。チキンゲーム。ロシアンルーレット。どちらがいいですか」
敵「(たじろいで)な、なに」
私は敵をにらみつけた。
私「チキンゲームかロシアンルーレットのどっちがいいかって聞いてんだよ」
私は強気で言った。
敵「・・・」
私「さあ。どっちだ」
敵「・・・」
私「このハンチク野郎。命が惜しけりゃ男なんざやるんじゃねえ」
そう言って私は金筋のたくさん入った空手家をぶん殴った。私は額縁のガラスを柱にぶつけて叩き割った。そして、中の紙を破いて男に突きつけた。私は男の口をこじ開けて紙切れを男の口に捻り込んだ。
私「食え。約束通り、ちゃんと紙を食え。この次はガラスだぞ」
男は咽喉を詰まらせながら、情けない顔つきで紙を食べた。男は食べおわると焦って逃げようとした。
私「待て。俺の言う事をよく聞け。・・・いいか。一度しか言わんぞ」
敵は唖然として黙っている。
私「俺達は・・・弱者じゃない」


(私の格言)
「命が惜しけりゃ男はやめな」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アホなスポーツ指導者

2009-12-31 02:35:31 | 武道・スポーツ
テニススクールのコーチは、気持ちのいいグランドストロークのラリーが続いていると、わざと打ちにくい所へ打ってくる。これは、「難しい事が出来るようにさせるしごきが上達に一番、有効」という程度の理解しかないからである。勿論、それも、限りなくゼロに近いが、多少は効果があるだろう。しかし。グランドストロークではもっと大切な上達の要素がある。それはリズムと反復によるフォームの完成である。テニスにおけるラリーは単調な(私は単調どころか気持ちいいのだが)空手の空突きの訓練に相当するのである。それをわざわざ壊すのだから、あきれる。自分は、ほとんど毎日、朝から晩までテニス、テニスで明け暮れているから体力がありあまっているので、一種のコーチングハイになっているのだろう。そもそも日本のテニススクールでは、ここでも有無を言わせぬ口答え、自己主張などもってのほかだから、自分は休んで生徒にボールを集めさせ、コーチは殿様気分になってしまっているから、指導の仕方の研究など生まれてこようはずがない。一年間、全く同じ事を喋ってるのを見てるとアホに見えてくる。勿論、日本人気質から、あらゆる事において生徒は師に絶対服従しなくてはならない。勿論、私も心の内ではコーチをバカにしつつも、うわべは、素直な生徒を装っている。そうしないと趣味の世界でも仲間はずれにされてしまうからである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルース・リーも指導者としてはいい加減である

2009-12-31 00:28:39 | 武道・スポーツ
ブルース・リーは本などでは非常に本質的で深い事を書いている。人格も謙虚でしっかりしていて隙がない。
しかし教え方にはちょっと問題がある。生徒の立場に立ってものを見れていない。ブルース・リーは、よく、「水のようになれ」と教えているが、水のようになるとは、はたしてどういう事を意味するのか、しっかりと理解できたり説明できる生徒がいるだろうか。別にリーは気取ったり神秘めかしたりしてるようには見受けられない。では私が説明しておこう。「水のようになる」とは、戦う時、「頭であれこれ考えないで、体の反射で戦う」という事である。別にこれは、難しい事ではなく、どんなスポーツでも基本の出来ている人は、試合の時、体の反射で戦っている。スポーツでは当たり前の事である。しかし徒手空拳の格闘となるとちょっと話が違ってくる。格闘では、何か自分が、ある戦い方を身につけていると、かえって、精神がそれに束縛されて、それが手枷足枷になってしまう事が起こるからである。だからこそブルース・リーは格闘において起こりかねない危険を強調して、「水のようになれ」と言っているのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする