今週号の 『 TIME 』 の表紙に、錦織 圭 さんが登場しました。
僕と『 TIME 』の腐れ縁については、約 4 年前の記事に書きましたので、ここでは詳しく書きませんが、あれからもずっと定期購読を続けています。
『 TIME 』は 1923 年にアメリカで創刊された、週刊ニュース紙で、TV も インターネットもない、約 100 年前には、最も斬新なメディアでした。
TV や インターネットの浸透に従い、その地位は低下してきましたが、電子メディアに対してスピードで劣る分、その記事は1 週間かけて一流のジャーナリストによって、よく練られており、未だそのステータスは失っていません。(と、僕は思っています。)
約 100 年におよぶ 『 TIME 』の表紙を見ただけで、その時々の“時代” を反映していると言ってもよいと思います。
とはいえ、『 TIME 』の取材および記事はアメリカ中心で、日本および日本人が取り上げられることはまれなのですが、今回は錦織さんが、堂々の表紙をかざりました。これは快挙です。
記事を読むと、外国人 ( とくにアメリカ人)が錦織さんをどうとらえているのか、よく分かります。
記事の要点は、
① 通常日本の日本の選手は非常にきれいなテニスをし、礼儀正しく、よく練習するが、本番では実力を出せない。日本人の礼儀正しさが逆にトップを狙う闘争心にマイナスになっている。錦織さんは少年期に日本でテニスをやるのではなく、単身アメリカのフロリダにあるテニスアカデミーに渡ってきた。錦織さんも渡米して 1年間はだれともコミュニケーションできない内向きの少年だったが、孤独とホームシックに耐え、世界のトップクラスの才能あふれる競争相手の中で腕を磨いてきたことが、精神力を高めた。
② 日本に帰れば、錦織さんは、15 分刻みでスケジュールが詰まっているスーパースターだが、才能あふれる人材が豊富なアメリカでは普通の青年であり、静かにテニスに集中出来る。彼は今もフロリダに住んで普通に生活を楽しんでいる。
『 TIME 』 の記事は ”アメリカを持ち上げすぎ” の感がありますが、『 世界の才能が集まる中での競争 』と『 騒がれることのない、集中出来る普通の練習環境 』 という点では頷けるものがあります。
一方、大前研一さん ( この人は数十年まえに、ウチの会社のアドバイザリーだったこともあり、少なからぬ因縁があるのですが )は自身のブログで、『 スポーツ界で、羽生さんや高梨さんや錦織さんなど世界トップクラスの人材が育っているのに、産業界では全然だめなのは、スポーツの世界は目指すべき世界の頂点が非常にわかりやすい目標となっているから。産業界では以前、松下幸之助さんや本田宗一郎さん盛田昭夫さんが世界の頂点を目指して突き進んできたからだが、今は若者たちが世界の頂点を目指すという目標も気概もない。』といった主旨のことを書いています。
大前さんの成功した創業者への礼賛 (および明治維新の功労者への礼賛)は今に始まったわけではなく、ステレオタイプ的で食傷気味です。スポーツ以外の産業界やその他の分野でも、世界のトップを目指している人はたくさんいるはずですが、そういう人はスポーツ界と違い、報道される機会が少ないだけです。
全豪オープンが明日から始まりますが、錦織さんには是非優勝してもらいたいものです。
僕はテニスもゴルフもオーストラリアの駐在時代にオーストラリア人のコーチから習ったのが発端ですが、彼らはスイングや型などは一切教えません。ボールを沢山打つことから始めます。(個々の体格や柔軟性はまちまちなので型にはまったスイングを教えても仕方がないという発想です。集団の型ではなく、まず個性から始まるわけです。)
錦織さんももし日本にいて、型ばかり押しつけらていたら、テニス選手としては貧相な体格ですから、世界のトップと伍していくだけの力はつかなかったでしょう。
彼は日本に拠点を戻す気持ちはもうないと思います。彼の中にはもう日本人であるとか、アメリカ人という区別もなく、『勝てない相手はもういないと思う。』と、そこには錦織 圭という個人がいるだけです。
なんでもかんでもアメリカがよいというわけではなく、アメリカも根深い病巣を抱えていますが、こと、なにかと人並み、世間並み、みんな仲良く、という悪平等が蔓延している日本と違い、人と違う個性をむしろ尊重し、伸ばしていく、という点ではアメリカは2歩も3歩もリードしていると思います。
サッカーの日本代表は、技術的には当然アジアカップで優勝しなけれなならないはずでしたが、かなり格下のUAEにも敗退したのはなにかこのことを象徴している気がします。