たとえば、「水、水」と言っても、喉の渇きを癒すことは
出来ません。
あるいは「火は熱い」と言っても唇は火傷をしません。
それほどに、事実と私たち衆生が後天的に得た「人間(にんげん)」
的な観念(知識)との間には、天地隔たる相違があるという事に
気が付かないために私たち衆生は些細なことにも、また社会の
様相にも迷い、疑問に思うのです。
このような疑問、世の中のすべての問題意識を、禅においては
「公案」と言っています。
たとえば、「水、水」と言っても、喉の渇きを癒すことは
出来ません。
あるいは「火は熱い」と言っても唇は火傷をしません。
それほどに、事実と私たち衆生が後天的に得た「人間(にんげん)」
的な観念(知識)との間には、天地隔たる相違があるという事に
気が付かないために私たち衆生は些細なことにも、また社会の
様相にも迷い、疑問に思うのです。
このような疑問、世の中のすべての問題意識を、禅においては
「公案」と言っています。