活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

活動2

2017年08月21日 | 語録

前足と後足は離れてはおりません。

 

何もかも其の場其の場の「因果の法則」によって進んでいる

のです。

 

そして、私たち衆生は世の中に「活動」するために生まれて

来ているのですから、「活動」さえすればよいのです。

 

活動は何でもよいのです。

 

只自分に適した「活動」をすればよいのです。

それを選ぶから「不幸」が起こるのです。

 

 


活動1

2017年08月20日 | 語録

「参同契(さんどうかい)」に「明暗各々(おのおの)

相対(あいたい)して比するに前後の歩(あゆみ)の如し」

というお示しがあります。

 

差別(しゃべつ)の上は直ぐ平等があり、平等の上に

差別(しゃべつ)があるのです。

 

そのことをたとえたお示しです。

 

前足と後足と歩みを分けますが、同じ一つの足です。

 

一つの体が前足と後足に分かれたのであって体の上から

いえば一つの足です。

 

歩みは止まらないのです。

前足と思ったのが後足ではないですか。

 

活動は止まらないのです。

後足と思ったら前足になっているのです。

 

それを明暗の常に相伴うことと形容したのです。

どうしても、離すことは出来ないものです。

 

明即ち差別(しゃべつ)に成り切って進んで行くのです。

進んで行くと所謂今の後足が前足になり、前足が後足に

なるのです


果満円成2

2017年08月19日 | 法理

「果満円成」というと、何かこれから「果」を「円満」

せしめなければならないと思うものです。

 

そういうことをするから余計にいけないのです。

 

そうではありません。

 

いちいちが果満円成なのです。

 

「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)〈いちいちの解脱〉」と

同じことです。

 

人間(にんげん)は何も彼も、その果満円成の様子に対して

どうしても変な考えを起こすから(手をつけるから)それで

うまくいかないのです。


果満円成1

2017年08月18日 | 法理

どうして私たち衆生は、「真の満足」が得られないのだろうか

と言って、それをいつも思うものです。

 

それは、「自己」を認めた上から、「今の自分」を眺めて

いるので、どうしても「真の満足」がいかないのです。

 

そこで「自己」というものが、元来無いものである真相に

一度徹しなければ、その解決というものがつかないのです。

 

「坐禅」はただそれさえ行じていれば「唯務(ゆいむ)」

必ず解決がつくのです。

 

どうして解決がつくのかといいますと、坐禅そのもの自体が

「そのものの実證」だけだからです。

 

すでに、皆さんの「結果」です。

 

これを「果満円成(かまんえんじょう)」といいます。

 


自受用三昧2

2017年08月17日 | 法理

「自受用」とは、誰もが自分自身を自分自身でいつでも

使っているのです。

 

それによってのみ、日常生活を送っているのです。

 

ただ、それを知(識)らないでいるだけなのです。

 

いつも行じられている、「仏祖深妙の行(ぎょう)」

というものは、私たち衆生にあっても欠けず、「仏祖」に

あっても増さず、「永久無変」です。

 

そういう大きな道を、「仏道」というものは皆教えているのです。


自受用三昧1

2017年08月16日 | 法理

私たち衆生は、日常生活において外に出ようと思えば、ただ、

そのまんま立って、知(識)らないうちに行くと思います。

 

これが「一切為さず」です。

 

足がどう運んだのか知(識)りません。


それほど「一切為さず」ともちゃんと行われている真相が

あるのです。

 

このことを「自受用三昧(じじゅようざんまい)に安住

(あんじゅう)している」といいます。


天真にして妙なり3

2017年08月15日 | 語録

自分というものさえ認めなければ、心意識の「意」という

形はありません。

 

ですから、ものに応じて自由に変化する事が出来ます。

 

「心」は千変万化して、しかもその跡形もなく、そのものに

成っているのです。

 

「心」というものは、もともと自分の内にあるものでもないし、

外にあるものでもないし、中間にあるものでもありません。

 

「心」は本当に不思議なものです。


天真にして妙なり2

2017年08月14日 | 語録

自分自身を振り返ってみれば、「只」でなければならない

と思いながら、どうしても「天真」に成れないという事が

誰にでもあると思います。

 

「花咲かぬ 身は静かなり 柳かな」という道歌があります。

 

花を咲かせようと思わない、悟ろうと思わない、安心しようと

思わない、これ以上の「天真」はないと思います。


天真にして妙なり1

2017年08月13日 | 語録

「天真にして妙なり」というお言葉があります。

「天真」というのは「飾らない、そのまま」という意味です。

 

いまだ、「道」を明らめる事が出来ない人はわかろうとして

それだけ飾ろうとするのです。

 

わからなければ、わからないままが一番「天真」なのです。

 

「妙」というのは、いいようがないという事です。


曽って名を知らず2

2017年08月12日 | 法理

実際に自分の六根と六塵(六境)といわれているものの

必然性は人の知(識)らないうちに必ず「一如」になら

なければならないようになっているのです。

 

「一如」でなければ動かれないように成っているのです。

 

そのことは、どんなに考えを費やしてみても推測の及ぶべき

ものではないのです。

 

「此の物」はそういうものの手のつくべきものではないのです。