前足と後足は離れてはおりません。
何もかも其の場其の場の「因果の法則」によって進んでいる
のです。
そして、私たち衆生は世の中に「活動」するために生まれて
来ているのですから、「活動」さえすればよいのです。
活動は何でもよいのです。
只自分に適した「活動」をすればよいのです。
それを選ぶから「不幸」が起こるのです。
前足と後足は離れてはおりません。
何もかも其の場其の場の「因果の法則」によって進んでいる
のです。
そして、私たち衆生は世の中に「活動」するために生まれて
来ているのですから、「活動」さえすればよいのです。
活動は何でもよいのです。
只自分に適した「活動」をすればよいのです。
それを選ぶから「不幸」が起こるのです。
「参同契(さんどうかい)」に「明暗各々(おのおの)
相対(あいたい)して比するに前後の歩(あゆみ)の如し」
というお示しがあります。
差別(しゃべつ)の上は直ぐ平等があり、平等の上に
差別(しゃべつ)があるのです。
そのことをたとえたお示しです。
前足と後足と歩みを分けますが、同じ一つの足です。
一つの体が前足と後足に分かれたのであって体の上から
いえば一つの足です。
歩みは止まらないのです。
前足と思ったのが後足ではないですか。
活動は止まらないのです。
後足と思ったら前足になっているのです。
それを明暗の常に相伴うことと形容したのです。
どうしても、離すことは出来ないものです。
明即ち差別(しゃべつ)に成り切って進んで行くのです。
進んで行くと所謂今の後足が前足になり、前足が後足に
なるのです。
「果満円成」というと、何かこれから「果」を「円満」
せしめなければならないと思うものです。
そういうことをするから余計にいけないのです。
そうではありません。
いちいちが果満円成なのです。
「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)〈いちいちの解脱〉」と
同じことです。
人間(にんげん)は何も彼も、その果満円成の様子に対して
どうしても変な考えを起こすから(手をつけるから)それで
うまくいかないのです。
どうして私たち衆生は、「真の満足」が得られないのだろうか
と言って、それをいつも思うものです。
それは、「自己」を認めた上から、「今の自分」を眺めて
いるので、どうしても「真の満足」がいかないのです。
そこで「自己」というものが、元来無いものである真相に
一度徹しなければ、その解決というものがつかないのです。
「坐禅」はただそれさえ行じていれば「唯務(ゆいむ)」
必ず解決がつくのです。
どうして解決がつくのかといいますと、坐禅そのもの自体が
「そのものの実證」だけだからです。
すでに、皆さんの「結果」です。
これを「果満円成(かまんえんじょう)」といいます。
「自受用」とは、誰もが自分自身を自分自身でいつでも
使っているのです。
それによってのみ、日常生活を送っているのです。
ただ、それを知(識)らないでいるだけなのです。
いつも行じられている、「仏祖深妙の行(ぎょう)」
というものは、私たち衆生にあっても欠けず、「仏祖」に
あっても増さず、「永久無変」です。
そういう大きな道を、「仏道」というものは皆教えているのです。
私たち衆生は、日常生活において外に出ようと思えば、ただ、
そのまんま立って、知(識)らないうちに行くと思います。
これが「一切為さず」です。
足がどう運んだのか知(識)りません。
それほど「一切為さず」ともちゃんと行われている真相が
あるのです。
このことを「自受用三昧(じじゅようざんまい)に安住
(あんじゅう)している」といいます。
自分というものさえ認めなければ、心意識の「意」という
形はありません。
ですから、ものに応じて自由に変化する事が出来ます。
「心」は千変万化して、しかもその跡形もなく、そのものに
成っているのです。
「心」というものは、もともと自分の内にあるものでもないし、
外にあるものでもないし、中間にあるものでもありません。
「心」は本当に不思議なものです。
自分自身を振り返ってみれば、「只」でなければならない
と思いながら、どうしても「天真」に成れないという事が
誰にでもあると思います。
「花咲かぬ 身は静かなり 柳かな」という道歌があります。
花を咲かせようと思わない、悟ろうと思わない、安心しようと
思わない、これ以上の「天真」はないと思います。
「天真にして妙なり」というお言葉があります。
「天真」というのは「飾らない、そのまま」という意味です。
いまだ、「道」を明らめる事が出来ない人はわかろうとして
それだけ飾ろうとするのです。
わからなければ、わからないままが一番「天真」なのです。
「妙」というのは、いいようがないという事です。
実際に自分の六根と六塵(六境)といわれているものの
必然性は人の知(識)らないうちに必ず「一如」になら
なければならないようになっているのです。
「一如」でなければ動かれないように成っているのです。
そのことは、どんなに考えを費やしてみても推測の及ぶべき
ものではないのです。
「此の物」はそういうものの手のつくべきものではないのです。