正治二年(1200)八月 藤原定家三十九歳。
記事の内容
定家は八月二十日には、主筋に当たる九条兼実のもとに参り、長い時間、相談などをして退出している。「和歌の事等」とあるのは、いうまでもなく『正治初度百首』をさしているのだろう。
二十三日には、後鳥羽上皇側近の藤原長房が上皇の意向を受けて、百首歌を明日までに詠進するようにとの書状を届けてきた。
定家は突然の催促に慌てて、未(午後二時)頃に父・俊成のもとに相談に参上している。この時の定家は、百首歌の完成まで二十首ほど不足しており、とりあえず詠み上げたところだけを俊成に見てもらったらしい。俊成からは、「これといった難点はないから、早く残りを詠み、歌数を揃えて提出するように。」ということであった。定家はまた、俊成の百首歌を見せてもらい、それに対する自分の意見を述べて帰った、とある。
感想
(「九条兼実像」『天子摂関御影(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)』画像はウィキメディア・コモンズから転載)
二十日の記事に出てくる九条兼実は、関白忠通の子として平安時代末期の久安五年(1149)に生まれ、鎌倉時代初めの承元元年(1207)、59歳で没した。『愚管抄』の作者として有名な慈円(じえん)は弟。
摂政、関白となり、一時期朝廷の政権を掌握したが、建久七年(1196)、政敵・源通親によって失脚させられ、政界を追われた。
建久九年、後鳥羽天皇が譲位し上皇となると、兼実の次男・良経が正治元年(1199)に左大臣となるなど、九条家の朝廷での地位回復が進む。しかし、兼実自身は政界に復帰することなく、建仁二年(1202)出家する。
兼実は若年より和歌にも関心が深く、自ら歌作を行うとともに、しばしば歌会・歌合を催した。兼実は初め、六条家の清輔を歌道の師としていたが、その死後は俊成を師に迎える。文治年間(1185~1190)頃から、兼実は次男の良経を後見し、九条家歌壇の活動が活発になり、俊成や定家らの新風歌人の庇護者的存在であった。
この日定家は、兼実から『正治初度百首』のことで励まされるようなことがあったのだろうか。定家は、兼実が体調不良だったのが回復したことを記し、非常に喜んでいる。
二十日 天陰り晴る。法性寺殿(兼実)に参る。見参し漏を移して退出す。和歌の事等を仰せらる。御気力尋常に異ならず。尤(もっと)も悦びと為す。
二十三日 天晴る。右中弁(長房)奉書して曰はく、百首明日進むべしと。卒爾にして周章す。未(ひつじ)の時許り入道殿(俊成)に参る。愚詠二十首許り足らざるに、詠み出だす所御覧を経たり。仰せて云ふ、皆其の難無し。早く案出して進むべしてへり。又御歌を見、所存を申して退出す。
二十三日 天晴る。右中弁(長房)奉書して曰はく、百首明日進むべしと。卒爾にして周章す。未(ひつじ)の時許り入道殿(俊成)に参る。愚詠二十首許り足らざるに、詠み出だす所御覧を経たり。仰せて云ふ、皆其の難無し。早く案出して進むべしてへり。又御歌を見、所存を申して退出す。
記事の内容
定家は八月二十日には、主筋に当たる九条兼実のもとに参り、長い時間、相談などをして退出している。「和歌の事等」とあるのは、いうまでもなく『正治初度百首』をさしているのだろう。
二十三日には、後鳥羽上皇側近の藤原長房が上皇の意向を受けて、百首歌を明日までに詠進するようにとの書状を届けてきた。
定家は突然の催促に慌てて、未(午後二時)頃に父・俊成のもとに相談に参上している。この時の定家は、百首歌の完成まで二十首ほど不足しており、とりあえず詠み上げたところだけを俊成に見てもらったらしい。俊成からは、「これといった難点はないから、早く残りを詠み、歌数を揃えて提出するように。」ということであった。定家はまた、俊成の百首歌を見せてもらい、それに対する自分の意見を述べて帰った、とある。
感想
(「九条兼実像」『天子摂関御影(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)』画像はウィキメディア・コモンズから転載)
二十日の記事に出てくる九条兼実は、関白忠通の子として平安時代末期の久安五年(1149)に生まれ、鎌倉時代初めの承元元年(1207)、59歳で没した。『愚管抄』の作者として有名な慈円(じえん)は弟。
摂政、関白となり、一時期朝廷の政権を掌握したが、建久七年(1196)、政敵・源通親によって失脚させられ、政界を追われた。
建久九年、後鳥羽天皇が譲位し上皇となると、兼実の次男・良経が正治元年(1199)に左大臣となるなど、九条家の朝廷での地位回復が進む。しかし、兼実自身は政界に復帰することなく、建仁二年(1202)出家する。
兼実は若年より和歌にも関心が深く、自ら歌作を行うとともに、しばしば歌会・歌合を催した。兼実は初め、六条家の清輔を歌道の師としていたが、その死後は俊成を師に迎える。文治年間(1185~1190)頃から、兼実は次男の良経を後見し、九条家歌壇の活動が活発になり、俊成や定家らの新風歌人の庇護者的存在であった。
この日定家は、兼実から『正治初度百首』のことで励まされるようなことがあったのだろうか。定家は、兼実が体調不良だったのが回復したことを記し、非常に喜んでいる。