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華はどこへ行った/「白鳥の湖」リハーサル




リハーサルはどうも...と言いながら、この1年ほどは夜まで娘に手がかからなくなったのと、幸運が続いているのとに両手を取られいそいそ参上した。

ロイヤル・バレエの「白鳥の湖」。

話の筋、これ以外にはあり得ない音楽、振り付け、演出、そして全体を包む謎と解釈の多様さも、すべて大好き。一番好きなバレエの出し物だ。


しかし、やっぱりリハーサルは...

全体的に何とも「華」のない舞台だった。

舞台人(<という言い方はあるのか)には、全員にとは言わないが、主役級には「この人が登場すると舞台の空気や色が変わる」華が必要不可欠だと思う。これは努力やトレーニングで養成できるものではないのだろうし、何をもって「華」かと問われても答えようがない。しかし、持っている人は持っており、あると分かるときは分かる。
そして華のある人がひとりもいない舞台というのは、何とも色あせて見えるのだなと痛感した。

とにかく主役のオデット/オディールの動きが非常に子供っぽく、見ていてつまらなかった。
動きの最小単位(時間の取り方の最小単位)が雑で無粋。
先月はアリーナ・コジョカル(Alina Cojocaru)のオデット/オディールを見たので比較すると、コジョカルの場合は、彼女が舞台上の時間を支配しているのではないかと思うほど動きが美しかった。これは最上級の誉め言葉だ。

次に身体が小さいのが気になってしょうがない踊りだったこと。身体が小さい優れたダンサーはいくらでもいる(コジョカルも小柄)が、会場全体を包んではみ出すオーラや、身体の使い方などで普通は全然気にならないはずなのだ。小さい身体で小さく踊ることには何の意味もない。これは「華」と被るだろう。


そんなあれこれを考えさせられたことを玩味すると、見に行って悪くはなかった(上から目線!)。


演出に関しては、3幕目の王子の花嫁選びの舞踏会のシーン。
ロイヤル・バレエの解釈では、この舞踏会は無礼講の仮装舞踏会だ。ロットバルトが歌舞伎風の顔立ちで妖怪じみた家来を連れているのも、オデット(実はオディール)がなぜか黒いチュチュをまとっているのも「仮装である」ことで説明がつく。また、図々しくも厚かましくも、ロットバルトが女王の隣りの玉座に座りこむのも、「無礼講だから」で説明がつく。
(例えばこの場面、アメリカン・バレエ・シアターは、ロットバルトがどんな女性をも意のままに操ることができるマスター・マニュピュレーター、超美形の魅惑的な男として描いていて、こちらにもかなり説得力がある。王子の花嫁候補達をメロメロにしてしまうのは圧巻。王子立場なし)。

ううむ、さすが「すべてを説明し尽くす」ロイヤル・バレエだ。わたしとしては、「なんだか分からないけれど、場の雰囲気でうっかり」とか、「いつのまにか」「魔が差して」「誰も気がつかないうちに」というような人間の心の謎な部分をそのままにしておく方が自然でいいと思うのだが。


何回見ても毎回何か考えたり「ひらめいた!」と完全自己満足にニヤニヤしたり、楽しいことが満載のバレエ鑑賞なのだった。

幸せだなあ。


(写真はtheguradian.comより、2011年のもの)
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