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続・tumblrとは何か? その内容と形式








左、Jeanloup SieffJean Loup Sieff、右、Kate Maccgwireの作品。
どちらもとても好きなアーティストだ。

ブログ上やタンブラーなどのソーシャルブックマーク上では、純粋に自分の好みだけで古今東西のアートを並列するという快挙/暴挙(今までは「権力」のひとつで、キュレーター、アートディーラー、コレクターなどのプロにしか許されていなかった)が意のままだ。
これが喜びでないとしたら他にどんな喜びがあるだろうか。

こうやって「好き!」な気持ちだけでアートを並べる時に思い出すのは、わたしが勝手に弟子入りした床の間主義者(トコノミスト)、雑誌編集者の岡本一宣氏による定義である。

「床の間とは主人の文化度の顕示とある種のナルシシズムと考える。要は住まう場所における自慢のコーナーなのである」

どうだろう、わたしはこれがタンブラーの「形式」の核のひとつだと思うのだが。


あるいはタンブラーで流れる写真の一葉一葉は、ロラン・バルトの言うところの俳句のような感じだ、と思うこともある。「短い形式に還元された豊かな思念ではなく」、「言語に見切りを付け」て、「一挙にその正当な形をとった短い終局」*(「表徴の帝国」)。
簡単に言うと、(俳句は)短い形式に凝縮した豊かな思想などではなく、「それ」にふさわしい形式を一挙にとって終わった短い出来事。
同じようにタンブラーで流れる写真一葉一葉にあてはまるのではないか、と(だからか、わたしは解説のついていない写真の方が好きだ)。



結論。
だからタンブラーとは前回のtumblrとは何かで書いた、オスカー・ワイルドの「ほとんどの人間は他人である。思考は誰かの意見、人生は物まね、そして情熱は引用である」

般若心経の「五蘊」(ごうん)、「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ」

が、内容であり、

床の間主義の「床の間とは主人の文化度の顕示とある種のナルシシズムと考える。要は住まう場所における自慢のコーナーなのである」
ロラン・バルトの「言語に見切りをつけた、短い形式に還元された豊かな思念ではなくて、一挙にその正当な形をとった短い終局」

が、形式。



まあどうでもいいことですが。



...



*「俳句においては、言語に見切りをつけるということが、わたしたち西洋人の思い描くこともできない重要な関心事なのである。意味が溶けでることがない、内在化することがない、にじみでることがない、はずれでることがない、暗喩の無限、象徴の気圏のなかにさまよいでることがない、こういうことを実現するために、たいせつなのは簡潔であること(つまり意味されるものの濃淡を減少させることなしに、意味するものを要約すること)ではなくて、逆にその意味の根源そのものに働きかけることなのである。俳句の簡潔は形体のためのものではない。俳句は、短い形式に還元された豊かな思念ではなくて、一挙にその正当な形をとった短い終局なのである。(中略)俳句の的確さ(俳句は、現実の正確な絵では決してなく、表徴するものとの適合であり、一般に意味論的関係を過剰にしたり希薄にしたりする充溢や血管やすきまを除き去るもの、それが俳句なのであって)、この的確さにはあきらかに音楽的な何者か(意味の音楽であって、必ずしも音の音楽ではない)がある。」(「表徴の帝国」)
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