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天才ライダー・伊藤史朗

2019-01-23 10:52:21 | バイク




1955年から1960年代にかけて、
「天才」と言われた伝説のライダーがいました。
彼の名は「伊東史朗・いとう・ふみお」
皆は彼をふみおとは呼ばず、シローと呼んでいました。
私もずっとシローだと思っていました。

伊藤史朗・・1939年10月生まれ。
兄・姉がいて、史朗は次男でした。
彼の父親・伊藤昇は音楽家であり、作曲家でありトロンボーン奏者でもありました。
「史朗」の名付け親は、父親が師と仰いでいた、
作曲家の山田耕筰でした。

史朗は13歳の時に母親を亡くし、
父親と姉とで史朗を育てたそうですが、
自由奔放に勝手気ままに生きる史朗にかなり手こずったみたいです。

史朗は父の血を受け継いだのでしょうか、
ピアノやウクレレの演奏もし、身長178センチと大柄な体躯で、
低音で歌も上手かったみたいで、後にレコードを出したりしました。







1955年、第一回浅間火山レースが開催されました。



このレースに若干16歳の伊藤史朗はライラック(丸正自動車)のSYZ(250CC)で出場し、
全くの無名ながら優勝したのです。



これはその後の、浅間を駆け抜けた伊藤史朗の雄姿です。
オートバイはライラックのシャフトドライブではなく、チェーン駆動ですね。

1956年・・ヤマハワークスチームに加入。
また、浜松でオートレースの選手としても活動しました。





1957年・・第2回浅間レースでリタイヤ。
1958年・・初の海外(アメリカ)でのレースで6位。
1959年・・第3回浅間火山レースで優勝。
1960年・・世界グランプリに出場。
1961年・・ヤマハのワークスドライバーとして世界グランプリを転戦。
1963年・・世界グランプリで、ベルギーで優勝。
1964年・・マレーシアグランプリで転倒。頭部に重傷を負う。

一度重い怪我をすると、それが為にドライバーは勇気が出なくなるのでしょうか?
それ以後、彼の成績は低迷します。

1965年・・拳銃の不法所持で逮捕されます。
また、薬物使用などで私生活に問題があったみたいで、
約束は守らず、嘘もつき・・・
自殺未遂事件を起こしますが、私的な女性に発見され一命を取り留めたとか。

1966年・・伊藤史朗はアメリカに不法入国します。
それ以後の伊藤は一度も日本に帰国する事なく、
生涯をアメリカで過ごしたと言われています。
フロリダで日本食レストランを経営したり、
ホテルチェーンの副社長をしていたとか・・・?

多くの人が彼を「天才」と呼び、
「彼より早く走れるライダーは居なかった」と、まさに伝説的なライダーでした。

1969年には、
大藪春彦が、伊藤史朗がモデルだと言われる小説「汚れた英雄」を書きます。



この小説は1985年に草刈正雄主演で映画化されました。
この小説や映画を観てレーサーになったライダーも、
数多く居るのだと思います。



また(消えた天才ライダー)として、
こういったドキュメンタリーの本も出版されました。

時代を駆け抜けた天才ライダー・伊藤史朗。
一世を風靡したと言ってもいい天才の短い人生でした。

伊藤史朗・1991年没・51歳でした。






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