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海難史上最悪の事故

2020-09-06 12:01:51 | 船舶
1987年12月20日深夜、
フィリピンで世界最悪の海難事故が起こりました。
その船の名は「ドニャ・パス号」

海難事故の犠牲者数は正確さに欠けるのですが、
この事故の犠牲者は最終的な公式発表では、4375人でした。
これは有名なタイタニック号の犠牲者1500人を大幅に超え、約3倍なのです。

一隻の船の沈没で亡くなった犠牲者が一番多かったのは、
ドイツの客船グストロフ号の9343人とされています。



この事件については2016年4月25日のブログに、
「海事史上最大の悲劇」として書きました。
同じ頃にはゴヤ号、シュトイベン号と、合計3隻の客船が沈み、
3隻合計の犠牲者は約2万人という数で、
これら3隻は「海の三大惨事」と言われています。

しかし、これらはみな戦争の為に魚雷などで沈められた事件であり、
完全な事故で沈没した船で最大の犠牲者数を出したのは、
フィリピンで沈没した、このドニャ・パス号なのです。

この事故のニュースは世界中を駆け巡りましたが、
扱いは小さく、すぐに忘れ去られてしまいました。
それはタイタニックの様な巨大な豪華客船でもなく、たった2000トンクラスの、
小さな船であり、乗船していた人がほぼ全滅してしまい、
事故の様子を知る人が殆ど生存していない事もあったのでしょう。

フィリピンは数えきれない程の島を有する島しょう国家であり、
これらの島を行き来するのは船に頼らざるを得ないのです。
そういった用途によく使われたのは、日本製の中古船でした。



ドニャ・パス号も元は日本のひめゆり海運が所有していた「ひめゆり丸」でした。
2640トン。
これをフィリピンの海運会社サルピシオ・ラインが買い取ります。
同社はこれを改造して、定員1518人に増員させました。

当時、フィリピンは島々を運行するこういった小型客船だらけで、
特に国の休祭日や年末には旅客輸送がピークになり、
通常の輸送では客をさばき切れなく、基準を無視して、
数倍もの客を乗せて運行するのが半ば常識化しており、
監督官庁も見て見ぬフリをする黙認だったのです。
乗船者名簿などあって無きが如くで、一体何人が乗っているのかなど、
まるで分らなかったのです。



1987年12月20日の早朝、
ドニャ・パス号はフィリピン中央部のレイテ島、タクロバンを出港。
この時点で乗船客は1300人。
すでに定員状態だったといいます。

同号はレイテ島の北にあるサマール島のカタロバンに寄港し更に乗船者を乗せます。
その結果、大部屋も通路も食堂も甲板も、
空所という空所は溢れんばかりの荷物と人で溢れかえり、
船内はそれこそ立錐の余地もない程の大混雑となっていたのでした。
この時の乗船者は4000人を超えていたのでした。

こういった状態で深夜の海を航行するドニャ・パス号は、
反対側から航行して来た、小型タンカー、ヴェクター号と衝突してしまいました。
ヴェクター号は650トンの小型船ですが、
1000トンのガソリンを満載していたのです。



(この写真はヴェクター号とは無関係です)
そして衝突とほぼ同時にヴェクター号は大爆発を起こし炎上しました。
爆発と同時にドニャ・パス号も一瞬にして炎に包まれてしまいました。
生存者はたった24名だけで、
24名は爆発の瞬間、爆風によって火災の外へ吹き飛ばされた人でした。



現場付近を航行中の他の船も、
流れだすガソリンの火炎の激しさに、近寄る事も出来ずにただ見守るのみ。
あまりに凄惨な光景だったそうです。

翌日も2隻の船は燃えさかり、火災が鎮火した時、
2隻の船は原型をとどめない状態であり、
その日の夕方には2隻とも沈没していったそうです。

その後、周辺の島々には250体を超える焼けただれた遺体が漂着。
しかし、現場の水深は500メートルを超えていて、
遺体収容は困難であるとして放置されたそうです。

事故の原因、責任は2隻の船の乗組員が全滅している為、判断は不可能とされました。
その後、最終的な死者数は4375人との発表があったそうです。

その光景を思い浮かべると、
ゾッとする様な深夜の惨劇ですね。




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