私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

厳めしい観音扉の門が

2013-01-13 16:45:54 | Weblog

 寛政年間、老中松平定信の時代です、華美は厳禁、質素倹約を旨とした政治改革を断行した時代です。「世の中は蚊ほど煩きものはなしぶんぶぶんぶと夜も眠れず」と落首が読まれた時代です。宮内が如何にご朱印芝居の地であると言われても、幕府政治の方針に反してまでも、芝居小屋を開設して、大阪の有名俳優を呼んで芝居を打つことはとてもできそうもない事だと思われます。しかし、出来たのだそうです。どうしてかはわからないのですが宮内で興行されたのです。  当時、人々は歌舞伎などの娯楽に相当飢えていたのでしょうか。近隣の村々からは勿論ですが、隣国からも、備前岡山はもとより、遠く播磨・讃岐・備後安芸辺りからも見学客に訪れ、毎日が大入りの盛況だったと伝えられております。
 此の寛政の興行により、その利益金は想像以上に達し、その為に、その益金の幾部かを割きてあの宏大で堅牢なる観音扉の門を持つ建造物が出来たのだそうです。それも益金の一部でです。 これからもわかるように、当時、幕府の基本的政治方針に逆らってまで、芝居を興行させるような相当の知恵者がこの宮内にいたことは確かなことです。


「種井」が「たねえ」

2013-01-12 15:38:59 | Weblog

 今日本当に久しぶりですが例の筆敬さんよりメールを頂戴しました。御元気のようです。彼が知ったかぶりに、次のように曰く。

「おめえも元気で、ようもようも、そげえな くだらんことばあ ながしゅう 書きょうるんじゃなあ。きょう ひさしぶりに おめえのブログをみたんじゃがなあ。「よっぴて」とあったが、ありゃあ 正真正銘の岡山弁じゃ。知らなんだんか。おめえが わしのことを「ふでけえ」とつけたんとおんなじことなんじゃ。わかるかな、わかりゃあへんじゃろうがなあ。ちょびっと教えてやらあ。おめえがつけてくれた「ふでけえ」たあ、ようかんがえてみたら 「しつこい」「くとい」」という意味からじゃというこたあ わかとったんじゃがなあ・・・・「ひつけえ」といういみがあるんじゃろうが。「ひつけえ」たあ「しつこい」という岡山弁じゃろうがの。こげえに よう岡山じゃあ 「イ」という発音が「え」に変るんじゃ。「くらい」が「くれえ」、「あかい」が「あけえ」というようにじゃ。きにょう いようた「よっぴとい」じゃがなあ。「とい」というのが「とえ」となって、それが しめえにゃあ「え」となって、「夜一夜=よっぴとい」が、岡山じゃあ「よっぴて」にかわったんじゃと思うんじゃがどうじゃ。ちいたあ わかったかなあ。まあ あんまり くどくどと くだらねえことをかくんじゃ「ない」よ。ではなかった。かくんじゃあねえよ。この「い」が「え」にかわるのはなにもおかやまだけじゃあねえんだ。江戸弁にもよく使われておるんじゃが まあ そげんこたあどうでもええが・・・」

 

 『なるほど、流石、我が「筆敬」氏だけはあるな』と、正月早々、感心することしきりです。
 そう云えば。私の故郷に「種井」と漢字で書くがあります。昨年のロンドンオリンピックのボクシングで銅メタルを取ったあの清水選手の生まれた所ですが、このは、正式には「たねい」と読むのだそうですが、その辺の人は、みんな「たねい」とはいいません。「たねえ」が普通の呼び方なのです。それで「え」かと思いました。なるほどなという感じです。


<よっぴて>という言葉知っていますか

2013-01-11 11:18:43 | Weblog

 又、今年も、ちょくちょくと一服しますのでよろしく。その第一号です

 現在、朝日新聞の連載小説に筒井康隆の「聖痕」がありますが、この小説、誠に難解語句が多く、読むのに随分と辟易しています。昨日もそうです。念のため、ちょっとそれを拾い上げてみますと、「洛叉(らくしゃ)」、「い繋(つが)る」、「世籠り」「彌日異(いやひけ)」等と云った語句がやたらと並び立っており、ほんとうに辟易したい気分に成りますが、それが、またたまらなく面白い気分にもさせてくれて、それこそ、喜寿の年寄りを毎日楽しませてくれておりますす。

 そんな語句の今朝の新聞ですが、それらの難解語句の最後に「夜一夜」という字がありました。それには「よっぴとい」とルビが降ってあります。ところで、私の町吉備津ではというより、吉備地方では、特に備中では、もう今では完全に死語になっているのですが、「よっぴて働いて」等と「よどおし」という意味の言葉を「よっぴて」と言い表わしていたのです。此の「よっぴて」という言葉は何処から来たのだろうかと、昔からその起源について探していたのですが、今朝の筒井氏の新聞小説の中に見つけたのです。「なるほど。なるほど」と感心することしきりでした。「そうか。<とい>が<て>か。夜が一夜か。一晩中か」と、突然の目から鱗でした。なんだか積年の胸のしこりが突然に落ちたように清々しい気分にさせられました。「ありがとうよ。筒井氏よ」と、感謝することしきりでした。これも新聞を読むという楽しさです。


寛政という時代の社会

2013-01-10 09:49:23 | Weblog

 一口に言えば、浪費・華美は究極の悪徳、当時は、現在、安部さんの「アベノミクス」と呼ばれているようなばらまきではないかと懸念がのこる政策は、ご法度だったのです。幕府の赤字対策として、緊縮財政による経済立て直し政策を松平定信は実施したのです。例えば着る着物も絹などの贅沢品はご法度にしたのです。なかでも芝居などは贅沢の最たる敵だとして厳禁しました。また、浮世絵などの出版物も、その対象の一つに挙げられ、相当の厳しい制限を加えたと伝えられています。
 そんな定信の経済政策も、「元の濁りの田沼恋しき」で、徳川家斉が将軍に就くとたちまちに、再び、文化文政の放漫経済に逆戻りし、その後、再び、忠邦の「天保の改革」が行われるも、もはや幕府経済の破たんはどう仕様もなく、慶喜による大政奉還にいたるのですが、現在の日本政治も、近頃の政治を見ておりますと、何だか、この江戸末期の政治に酷似しているのではいかと思わずにはいません。デフレ脱却の為のインフレ政策、それは所謂、百兆にも達するとされている財政赤字を、更に、雪だるまのように大きくして、その挙句、にっちもさっちもいかない日本に押しやってしまうのではないかという懸念がな依存しているのではないでしょうか。此の寛政八年の宮内芝居を関連付けてこんな思いが胸を行き来しています。

 でも、そなん寛政八年のことです。不思議なことなのですが、この宮内では芝居が行われたのです。前にも書いた通り、宮内は、江戸時代の「御朱印の芝居小屋」十ケ所の一つに加えられていました。それから、此の地は、西国の、しかも、江戸より遠隔地を云うこともあって幕府も少々大目に見ていたのでしょうか、此の緊急の幕府体制の中でも、芝居小屋の開設を許可したのだと思います。賄賂も相当有ったのかもしれませんが、大阪の名優「いろは屋文七」を招いて芝居を打ったのです。

 なお、この「いろは屋文七」という大阪の名優の名を牛骨先生は、「宮内の今昔」という本に書いておられるのですが、寛政時代に、江戸には中山文七という名の歌舞伎俳優はおったといわれるのですが、何処をさがしても、大阪に「いろは屋文七」という名優がいたという事は出て来ません。どなたかご存じのお方はいませんか???お教え頂けると幸いです。


吉備津神社旧社務所

2013-01-09 09:37:42 | Weblog

 神社の長い回廊を尽きれば細谷川を挿んで、厳めしい観音扉の門を備えた建物が見に付きます。この建物は江戸時代の吉備津神社神領の「政務所」として使われていたのです。
 この門が出来たのは、棟木に残された記録などから、寛政八年(1796年)です。古記録によると、その時は松平定信の寛政の改革の真っ直中、武断政治の緊縮財政の時代だったのです。だから、華美はご法度、生活総てにわたり質素倹約の世の中だったのです。着る服に至るまで制約されていました、だから勿論、歌舞演劇は、当然、ご禁制で、江戸京大阪などの芝居小屋など次々と閉鎖に追い込まれ、人々は誠に窮屈な生活を強いられてたのです。そんな時に出来た建物です。当然、普通質素倹約のこんな時代に、このような宏大な建物なんか建てられるはずがありません。それでもこの吉備津神社では出来たのです。それも芝居による益金でです。不思議でしょう。
 それはまた明日。


カワセミのなきがら

2013-01-08 11:14:01 | Weblog

 昨日は七草でした。毎年、その七草は、周りの田圃の畦道から摘んできて七草粥(私は雑炊にして食べます。「ななかべぞうしいそこうれし」といわれ、残り少なくなったお餅も一緒に炊いて、しょうゆを入れた雑炊にしたもの)を作って食べております。例年は孫達と一緒に七草は摘むのですが、今年は、学校もあり、私の摘んで来た七草を孫達にもおすそ分けしました。

 せりなずなはべらほとけのざ(こおにたびらこ)も例年通りたやすく摘むことができます。少々遠出するとおぎょう(ははこぐさ)もあるのですが、北風がさむみ、まあいいかと思い、畑によってすずなすずしろを引き抜いて帰ります。
 今年は、その途中、どうしたことか、この近辺でも、時々、近くの用水を飛んでいる姿は目にするのですが、そのカワセミの亡骸が、小寒の草の中、日の光をあびて翅の瑠璃色と胸の茶色を、神秘に、きらきらと輝かせていました。今年も、雪は降らないのですが、衣手の家にかえりました。(「衣手の」は「かへる」の枕詞)

    かわせみの 嘴(はし)のするどき 横たへて 
                              寒晒しか けふは七くさ   びりょ

 

       


元禄という時代

2013-01-07 11:24:37 | Weblog

 この大石が宮内に泊った元禄という時代は、言わずもがなだとは思いますが矢尾牛骨は書いています。

 「・・・天下泰平を謳歌し諸国の武士は漸く惰弱に流れ華美を競ひ武道も衰えんとする時代なれば宮内の繁栄亦想ふべし。公辺に飯盛奉公人といへる名目の下に女郎芸妓を抱へ居たるも世の中の華美贅沢を極むる時代なれば優美を誇る此地の京大阪地方より妓を抱へ来りたるものにて、此地に稼ぎ年老い又は流行せざる妓は雲州松方面に送られしを普通としたるものなりと古書類又口碑に伝へ居れば此地の遊郭は粋を蒐め居たるものならんか」
 と。

 この時代の宮内の繁華は、今からは決して想像もつかないほど「華美贅沢を極めていたらしいのです。その時代にタイムスリップしてみたい気になります。


大石良雄が泊った宮内

2013-01-06 17:30:54 | Weblog

 備中松山城の受け取りに播州赤穂から来た大石良雄達の一行が松山に至る前日宿したのがこの宮内です。間瀬孫九郎達の家臣が止まった記録が宮内に残っているのです。その記録によるとこの大石達浅野家の一行は総勢一千十八人、馬四十疋だったそうです。これだかの大人数の人達を宮内の片山、熊小路、三日市、辻小路の町内に収容したのだそうです。当時この宮内にはそれだけの人数を収容するだけの設備は整っていた証拠です。それから押してもその数は詳らかんではにのですが。数千人のものがこの町内にはいたと思われます。

 これは元禄八年(1695年)のことです。いかにこの街が華やかに元禄の時代を謳歌していたかということが分かります。


さて、再び、矢尾牛骨の「宮内の今昔」を

2013-01-05 18:09:48 | Weblog

 再び、矢尾牛骨の「宮内の今昔」について記します。

 今は庭瀬分にはなっていますが、昔の宮内は東山から始まり片山、三日市、辻小路、熊の小路、大吉野、中吉野、新地、城の内、馬場、白畑十二町に分かれ、遊郭は殆ど全町に亘り、此の地の特色なる角行燈は軒に並んでいたのです。
 この十二町内に当時どれほどの人が住むんでいたかは詳らかにはないのですが、明治初年まで大庄屋を勤め居た中田家の古書類によりと、元禄八年、播州赤穂城主浅野侯の家臣は将軍の命に因り、備中松山城主水谷出羽守に嗣子がなく、お家断絶に及び、それを受けつるために松山城にやってきますが、その宿を、この宮内で一手にひきうけたのだそうです。その代表者が家老の大石内蔵助でした。その時の記録が残っているのです。 時は、元禄八年亥八月五日です。それから七年後にあの旧浅野家浪人の吉良家への討ち入りが有ります。その時には、これら浅野家の人々には予想もつかなかったことなのです。

 


高尚の国学論その4

2013-01-04 17:29:20 | Weblog

 さて、いよいよ高尚伝も最終を迎えました。国学の四しなの最後が「神道学問」です。

 神道学問とは古事記・日本書紀がこれです。その神代の巻に心をとどめて見れば、これこそ我が国の道をしるした学問でだとしているのです。

 以上四しなを読んで人々に教えれば国学が広まること間違いないと述べているのです。

 この書簡を見て気付くのは、高尚というお人は、ものすごい勉強家で、あまたの本を、古代から伝わる書物「四しな」総てにわたって目を通し、深く研究しているのです。その知識の豊富さは勿論のこと、その研究姿勢に対して驚き以外の何ものでもない崇敬の念さえ覚えるのです。
 このような超一流の偉人がこの吉備津に育ったということは、同じ里に住む者として、また、誇らしく思え、現代ではあまり顧みられなくなっていますが、再度、彼が日本の知識人として名前が全国的に広まる事を願ってやみません。

 


再び、高尚の書簡

2013-01-03 20:43:32 | Weblog

 高尚の国学論ですが、「四しなあり」と書いております。その国学四品とは歌学、文章、記録学問、そして、神道学問です。さきに歌学と文章については書きましたから、後は記録学問と神道学問です。

 この「記録学問」について
 「これは六国史をははじめ式・格・律・令の類数部あり。これをくわしくよむ人はいはゆる有識者也。土肥典膳などの学問これに近し。橋本肥後守是なり。橋本方にて令の会読有之出席いたし申候。神道家などかならず記録は可読事也。これを見ざれば本朝の事明かならず」
 と、あります。

 六国史とは日本書紀・続日本紀などの日本の歴史で、また、式・格・律・令、とは大宝律令とそれを補足した法律、格式で、貞観格式等を指します。要するに、国学を志す人は日本の古い法律、大宝律令などの法律も勉強しなくてはならないと説ています。

 新年早々ちょっと小難しい事を書いてしまった事をお詫びします。まあ、その方面にいくらかでも興味あるお方はお読みください。


明けましておめでどうございます。

2013-01-01 20:21:23 | Weblog

 昨年末、少々の多忙につき、この欄を長らく失礼してしまいました。
 新たなる年を迎えて、本年も私なりに「私の町吉備津」を頑張ろうかなと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 さて、もう少し高尚の事が残っていますが、後2,3回で終了します。考えてみますと、「私の町吉備津」と立ち上げてからもう7年にもなります。それでもまだまだ書く材料が数年間分はあるのではないかと思います。

 今年、最初の私のブログです。ご批判願えたらと思います。

       

      

               

  

 

      

 

 この迎春の飾りどうでしょうか???私が作った今年の正月がざりです。