備中松山城の受け取りに播州赤穂から来た大石良雄達の一行が松山に至る前日宿したのがこの宮内です。間瀬孫九郎達の家臣が止まった記録が宮内に残っているのです。その記録によるとこの大石達浅野家の一行は総勢一千十八人、馬四十疋だったそうです。これだかの大人数の人達を宮内の片山、熊小路、三日市、辻小路の町内に収容したのだそうです。当時この宮内にはそれだけの人数を収容するだけの設備は整っていた証拠です。それから押してもその数は詳らかんではにのですが。数千人のものがこの町内にはいたと思われます。
これは元禄八年(1695年)のことです。いかにこの街が華やかに元禄の時代を謳歌していたかということが分かります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます