私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

今日が満開、吉備津宮の桜

2012-04-09 20:02:43 | Weblog
 桜の満開の日が来ました。今日の暖かさに、待ちわびていたかのように一斉に桜が満開となりました。池のしだれと回廊の桜と駅の桜が同時に満開になるなんてことは、今まで見たことがありません。今年は寒さをじっと我慢したかいがあったのでしょうかね。同時に満開なんてね!!!!!その美しさをどうぞ。今日夕方太陽が西に端に傾いた5時頃の写真です。

    

  さて桜と言えば業平ですが。あの伊勢物語の中で、何時もこれは面白いと思う歌があります。

   散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき
 
 です。此の外にこんな歌もあります

   桜花今日こそかくもにほうともあな頼みがた明日の夜のこと

 さて、そんなん桜ですが、あなたは何時の桜が好きですか、朝ですか夕方ですかそれとも真夜中の月光を浴びた桜ですか???

もう一本の吉備津の桜

2012-04-08 18:47:03 | Weblog
 昨年の御紹介しましたが、「大変美しい桜だね」と賞賛して頂きました、染井吉野ではない、名も無き桜が、今を先途と、吉備津駅で、咲き誇っています。

      

 西に傾いたおひさまにあたって輝いていましたので写真に写してまいりました。岡山の桜の隠れた名木です。今年は随分と春が寒かったので、例年より5、6日遅れて、明日明後日が見ごろだと思います。是非「お暇なら来てよね」と呼びかけています。

 なお此の木については昨年も紹介しています。その文章を次に挙げておきます。

  此の木について「雨寄晴好」と、昨年は御紹介したのですが、今年は、此の桜に未だ雨は見えません。こことばかりに「晴好」をいっぱいに見せつけております。特に、西日を受けて桜色を木全体にまぶしつけたような輝きは何とも云われない美しさを漂わせています。ちなみに、昨年は此の木の開花は3月22日でしたので、相当遅れています。3月の初旬ごろ、まだ蕾は硬くしっかりと閉じているにもかかわらず、何となくこの木にあるかないかのような僅かなさくら色を刷毛で化粧しているような姿で立っていましたが。開花した今日の姿は、日の光を浴びているという関係があるのかもしれませんが、堂々と己自身の桜色をいっぱいに撒き散らしているようでもありました。 

藤井高尚と吉備津の桜

2012-04-07 16:31:01 | Weblog
  3、4分咲きの吉備津神社を通って、細谷川の上って行くと、叢の中に見え隠れするように藤井高尚の歌碑が立っています。
   

 その歌碑に書かれている文字は 200年という時間が消しさってしまって今では読むことはは不可能です。幸い、現在はその歌碑の傍に解説板がありその歌を教えてくれています。その内の一つは

  “露深き 谷の桜の 朝しめり 見し夕暮れの 花はものかは”

 と、いう歌だそうです。周りの叢にあるこの石碑には、今見てきた吉備津神社の華やかで豪華とでも言ったらいいのかもしれないような沢山の桜と比べ、時の流れのこもごもとした哀愁が漂っているように思われます。

 こよなく愛した吉備の中山を流れ下る細谷川に、高尚は生涯かけて桜と紅葉を植えて、春と秋のその風情を大いに楽しんだようです。でも、今は、此の谷川沿いには、残念ですが、桜の木は一本も見ることができません。
 それだからというわけではないのでしょうが、吉備津神社の回廊沿いにたくさん植えられている桜が、谷の桜の代わりに、現在、その美しさを繰り広げており、高尚の風情を展開しています。

 この歌で、高尚は朝の桜が最高だと言っているのですが、私はどちらかというと夕暮れが桜も好きで、この時期の毎日の散歩コースにしております。

吉備津の桜が漸く開きました、「マア イッペン、ミニ、オイデンセエナ」

2012-04-06 20:55:11 | Weblog
 又今年も随分と遅い桜ですが、花に物思う春がやってきました。いわずと知れた吉備津神社周辺の桜の木々です。団子はないのですが、今日も少々の北風が舞っている中を写真に写してきました。早い木でまだやっと2,3分咲きがいいとこですが、満開の時は又写してきますので比べてみてください。先ずは、今年第一回目の「私の吉備津」からの桜だよりです。
  
 これは龍神池にあるしだれ桜で、まず、どの木より魁けて、吉備津では、まず最初に、その美しいさくら姿を空に輝かせます。此の桜は、今、5、6分咲きの状態です。
 その他の桜は、ご多分にもれず、染井吉野で。これらは総て回廊沿いに植えてあります。
   
   
 是非に見においで下さい。JR吉備線の吉備津駅下車で、吉備津神社を廻り細谷川を上り、ご陵の桜を見て、更に、そこから、吉備津彦神社に下りるコースをたどると、これぞ県下では余り知られてはいませんが私は岡山では一番のはお花見コースだと思います。どうぞ一度おいでくださいませ。岡山弁で言うと「マアイッペン、ミニ、オイデンセエナ」とでもなりますか
 

 なお、吉備津の「さくら」と言えば、あの本居宣長の愛弟子(4本柱の一人)である藤井高尚を上げなければなりません。

 これについては、又、少々長くなりますので、明日に 

私が書いた小説

2012-04-05 18:21:15 | Weblog
 もう6年にもなるでしょうか。前に一度このブログを使って、私の小説とでも言ったらいいのかもしれませんが、江戸の末期文化文政頃、ここ宮内にいた遊女「小雪」にまつわるお話を載せたことがあります。
 久しぶり開いて読んでみたのですが、我ながらなかなかな出来栄えではないかと思いましたので、もう一度ここに登場させます。ご批判願えればと思いますので。

 その前書きとして、

 私の町吉備津では、吉備津神社がある関係かと思われるのですが。このお宮さんのある宮内にはお墓は1つもありません。その例として言えるのですが、普通ならお寺さんがあれが、たいてい、その寺の周りには、檀家のお墓がずらりとあるのが普通です。でも、宮内にある普賢院というお寺さんの周りにはお墓は1つだにありません。この宮内の家々のお墓は、この宮内にはなくて、「向山」と呼ばれている吉備の中山の北側にある板倉の山の山裾に板倉の人々のお墓と一緒にびっしりと並んで作られています。普賢院の住職さんのお墓も、吉備津神社の神主さんのお墓もそこにあります。しかし、この宮内の中でも、吉備津神社領ではなく、庭瀬藩領だった片山の山裾には、そこのの人達のお墓が作られています。

 この片山にある墓地の中には、当時、宮内にあった山陽道随一の遊郭と歌われた所にいた多くの悲運な遊女の亡骸を埋めた無名の小さなお墓も沢山見ることができます。その沢山にある遊女のお墓の中に、ただ一つだけ例外的に「小雪」と呼ばれた遊女の墓が、一般の遊女の墓地ではなく、特別に一つだけ独立して建てられているのを目にすることができます。それも、此の遊郭を取り締まっていたあの清水の次郎長よりも大親分だと言われていた熊五郎親分の子分であったと言われている人の傍にきちんと建てられているのです。
 どうして、この「小雪」と呼ばれていた遊女だけ一人、沢山いただろうこの宮内で命を落とした遊女よりも違って、特別に、このような晴れがましい処にお墓を作ってもらったのでしょうか。そこら辺りのお話は、全く謎で、何も分かってはいません。

 そこで、そのお墓が出来た由来を、私が小説的にで、そこら辺りを創作して見たと云う次第です。少々長ったらしいのですが、暫らく、再度、このブログに載せますので、私の作り話をお笑いながら読んでいただけると幸いです。

 なお、題名は「小雪物語」としました。

「こねえで」と言った大工の言葉

2012-04-03 17:28:33 | Weblog
 そのでえく(大工)が「こねえで」と言ったんで、殿様は当分の間はほってえたそうな。
 「一人でするんじゃけん。そげんできるもんか」
 とかなんか、ぶつくさ言いながら。
 でも、殿様なんかが思っていたのより違うて、不思議なことじゃが、お宮がどんどんできょうたんだと。昼間は一人でやっているのに、朝、目が覚めてめてみたら、きにょうより、何十倍もはかどっていて、ものすごう仰山、柱や何やらが立ててあり、屋根まで上がっていたのじゃ。殿様は、「どうして、こげえにはよう出来るんじゃろうか」と、不思議で不思議でおえりゃあせん。「こねえで」と言う、約束をしとったんじゃが、日が暮れてから、こっそり見に行ったんじゃ。すると、昼間は一人しか働いておらんのが、夜行ってみると、昼間のでえくと、顔も形も、一つも違わんおんなじもんがぎょうさん黙って一生懸命に働いていたそうじゃ。どれが昼間の、でえくかわかりゃせん。そこで、一人のでえくに聞いてみたそうな。
 「おめえらの親方はだれなら。でえもけえもみんなおんなじで、わかりゃあせん。ほうびゅうやろうと思うんじゃが。だれにやったら、ええんじゃろうか」
 「親方にゃあほくろが鼻んとけえ、ちいとるけえ、そりょうをみりゃあわからあ」
 「ええ事を聞いた、あしたりにでも行って褒美をやらにゃあ」
 と、
 それを聞いて、その晩は早く寝たそうな。
 殿様は、あくる朝、ぼっけえいせえで、そけえ行って見ると、どうした事か分らんが、今まで出来ていた拝殿や本殿などのお宮をいしょくたにして、一つのお宮にしてしもておったのじゃ。屋根にゃ、ぐじゃぐじゃに取り付けられておるし、柱の間は、広かったり狭かったりしているし、お宮さん、らしゅうねえ、へんてこな建物が出来ておったんじゃと。せえから、お宮のど真ん中のおおけえ柱にゃあ、握りこぶしぐれえの黒々とした節がついてあったそうな。
 でも、何処を探しても、ほくろがあるでえくの親方も、きのうばん、あれぐれえ、おおぜえ、おった同じ顔・形をしたでえくも、どこをさがしてみてもおりゃあへん。
 仕方がねえけえ、かえりょうたら、細谷の橋のとけえ、仰山のどれもけえも、同じ、かたちゅうした藁の人形の重なって捨ててあったと。

 そりょうみた殿さまが考えたんだと。
 「こりゃあ神様の仕業じゃ、ありがてえことだ。わしが立派なお宮を造ろうと思っていたんじゃが、何処のでえくも、わしが出した注文があんまり難しいんで、よう造らんけえ、それを知った神さんが、やってきて作ってくれたんじゃろう。藁人形を弟子にしてのう」


 こんなお話が細々とですが、まだ、捜すと、偶然にも、耳にすることもあります。このお話も、ある年老いたおばあさんから聞いたものです。この人も今では故人になられておられます。
 「こげんな話でよけりゃあ、まだ5や6つはあるでー」
 と、言っていたのですが、惜しい事に、このお話が最初で最後になってしまいました。
 
 このような何代にも亘って、口から口へと伝わって来た昔話が、今のこの文明の社会の中から、どんどん消え去っていっています。核家族とやらの、是も、「近代」とかいう社会現象でしょうかね 。
 
 

このブログに書いた過去の記録を少々顧みます

2012-04-02 19:49:03 | Weblog
  このお話を書いたのは、2007年の5月の事でした。5年も前の話だから、誰も記憶している人はないだろうと思って暫らくその過去に書いた物を少々取り上げます。

 先ず、試みに吉備津地方に伝わるお伽噺です。


 桃太郎とか、温羅とか、吉備津彦命にまつわる昔話は、この岡山地方には沢山あります。
 これからお話します昔話は、前回の安覚のお話と同じように、今では、この地方の人でさへ誰も知らない、記憶にさへないようなとっても不思議な私だけしか知らないような吉備津に伝わるお話しなのです。まあお聞きください。
 少々長いので、二回に分けてお話します。

 でえれえむかし、備前と備中の堺にお宮を建てようと思ってのう、ある殿様が国中へ、どえれえうめえでえく(大工)がおりゃあせんかとおもうて、お触れを出して捜したんじゃと。でも、「わしにやらしぇえ」と言う者は、ひとりもおらなんだ。
 ところがじゃ、せいから4,5日してから、ひょっこりと「わしが建ててやらァ」と、いうてきたもんがおったんじゃとう。
 殿様が
 「お宮は一人で建てられるわけがねえ。お前が一人で建てるんか」
 と聞いたんじゃと。
 すると、そのででえく(大工)は
 「わしに任せてくれれば、ものすげえ、ええお宮を作くて上げるけえやらせておくれえ。おねげえします」
 あんまりしつこう言うもんで、殿様も
「まあ、あげん言んなら、ものは試しじゃ、やらせてみゅうか」
 と、その不思議なでえくに頼んだそうな。
 その大工は
 「殿様がびくりするぐれえ、ものすげえええお宮をこしらえてあげるからなあ。楽しみにまちょうりんせえ。・・・・でもなあ、お宮が出来るまでは、ぜってえ、でえく小屋には近寄ったらいけんでえ」
 と、言うたそうな。殿様も、仕方ねえけん、ほってえたんだと。
 昼間、遠方からみゅうると、一人でコツコツとやって居るのがわかったんで、みんなは、「いつごろできるかなー、わしが生き取る間にできるんじゃろうか」などと、言うておったそうな。