私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語ーがまんおし、がまんおし

2012-04-24 09:16:51 | Weblog
 それから、しばらく小雪の胸には、今この耳にした、初老の令夫人の言葉が何か心地よい子守唄でも聞くように響き続けております。
 大方の人は、「神なんて」といっているようですが、それはそれはありがたい「さえのかみ」だと、小雪には、今更のように思えて仕方ありません。
 この宮内に来て以来、まだ一年もたってはいませんが、自分が果たして自分であることすら忘れ去ってしまったような生活です。
 京で危うい自分をお助けくださり、この宮内に連れてきてくださった万五郎親分も、聞くところによりますと、岡田屋の熊五郎大親分のために、あれ以来、諸国を駆け巡り一万両という夢にだにしたことのないような大金集めに奔走しているとかで、この宮内には、一度も姿をお現せにはなられません。
 「なにもせんでええ、心配いらん、ずっとこの街にいるのじゃ」
 と、ぶっきらぼうにお言いになったまま、それ以来まだお目にかかっていません。
 この宮内の「大阪屋のお親さん」という親分さんと随分と親しいお人がおやりになっている宿を塒にするよう言われ、言うままにそれ以来、ここを浮世の仮の宿と決め住まいしています。
 「なにもせずに・・・」といった親分さんに対しても、またお親さんに対しても、毎日ただぼんやりと過ごしていい訳がありません。
 さしあたり今、私にできることというと、今まで自分で生きてきた「うかれめ」と癒され卑下され続けてきた悲しい女にしかできることがない道にしか生きる方法がありません。
 「とんでもないこと」と、おかみさんには随分しかられもし、又、反対もされましたが、女の悲しい性にも引きづられるようにして、再び、この道に、自分という者をこの世の中から葬り去ってしまいたいと云う思いもあって、今度は、敢て、自分からそんな世界に飛び込みました。
 しかし、毎夜、見知らぬ男に抱かれ続けることのむなしさにさいなまされ続け、奈落の果ての今の生活に、自分でいい加減に見切りをつけようにも、その道も洋として分らず、自分が自分でないままの自分に追いやらされている毎日でした。 
 そんな時の、不思議な出会いでした。
 「きちです」とお名乗りになられたそのお姿に、小さいときから自分の支え神と信じてきた「さえの神様」が重なるようにして突然に小雪のまぶたの裏に入ってきます。そして、[ああ、やっぱり小雪はまだここに生きてるのどすな」と、久しぶりに自分が自分であるという意識をとりもでし、母の姿と、先ほどの老婦人とが入れ換わり立ち替わり、不思議なのですが入り乱れるように胸中に出入りします。
 そして、決して返事のもらえない塀の向こうに消えるように去っていかれたあのお姿に向かって、「かあさん」と、声のない声が小雪の体を駆け巡るのでした。

 中山颪の風が 細谷の瀬韻を街角に運んできては、しきりに「がまんおし、がまんおし」と唸っています