さくらの蕾が枝々で大きく息をして、今にも己の精をそこらじゅうに撒き散らそうとしています。ぼーっとした薄紅色の霞がかった春本番前のほんの一瞬にしか見せないさくらの木自身の色香を漂わせています。
小雪も、そんな宮内の春を、今か今かと、ただそれだけを楽しみにしているかのように待っていました。姉さん達が言っている、この宮内の春がそんなにもきれいなのかしらと、また、京の花とどう違うのかしらと。
そんな春を待つ春雨に煙る日のお昼近くだったと思います。もうとっくの昔に小雪の心の中から消え去ってしまていたさえのかみさまにお参りした時、街角で、偶然にお声を御掛けいただいた、あの堀家の大奥様「きちさま」から、突然降って湧いたように、お文が届いてまいりました。
ほんのりとした軟らかい、かって母から聞いた「黒方」でしょうか、それとも「梅花」でしょうか、衣香が立ち上ってきます。その表には、濃いからず薄からず誠に達筆ですらりと「小雪どの」と書かれています。手に取るだけで胸がどきどきするような思いに駆られる小雪でした。
「いったいなんでしゃろ」。
震える手を押して封を開きました。
「俄におもいたちてご都合いかならんとあやぶみながら一筆参らせ候。今朝御珍らかなるお人わが宅にまかり下さり、そこもとに是非御目もじ候ばと御申され候御立出でくださるよう願上置候。 かしこ きち」
この喜智からの短い文が、小雪のこれからの運命を大きく代えることになろうとは誰も知る由もありませんでした。
一体何事が起きたのか手紙だけではよく分りません。「どないしたら」そんな思いに駆られながら、まだ一度もこの里に来てから袖を通してない母の形見の紫小紋の羽織の入った小箪笥の当りをぼんやりのなんとなく眺めておりました。
突然に、お宿のかみさん、お粂さんの、頭の天辺からでも出るのではないかとお思われるようなあの甲高い叫び声が小雪のいる二階に響き上がってきました。
「なにしているの小雪、堀家の大奥様からお呼び出し。ぐずぐずせんと速よう行きねー」
その叫び声に、宿のお久ねえさん達も「どうしたん、どうしたの」と心配して小雪の部屋へ集まって来てくれました。そんな皆に、後押しされながら、素早く小箪笥の中から出した小紋の羽織を抱くようにして取り出しました。お粂さんも駆け上がってきて小雪の頭など細々とてきぱきと整え、着付けもお滝ねえはんが手伝いそうにしているのも無視して、自分で、何かぶつくさ言いながら手早く着せてくれます。さすが手八丁口八丁のお粂さんと言われていただけの事はあります。誰よりも上手に、あっという間に、着付けしてくれました。
押し出されるようにして、大阪屋を出て、半町ばかり先にある堀家のお屋敷を目指して、なにがなんだか分らないまま、重たい歩を進め行きます。